2013-07-07

仏教と政治(1)

スリダンマーナンダ長老 著 

仏教は、世俗的な事柄をすべて超越しています。それでも政治に関しては、よい政治を行なうためのアドバイスをしています。

お釈迦様は王族のカーストの生まれであり、自ずと王や王子、大臣たちとかかわりを持つ環境におかれていました。しかし、このような出生や人間関係があるにもかかわらず、お釈迦様は政治的な権力を仏教を広めるために使いませんでした。また、仏教を不正に利用して政治の力を得ようとすることも認めませんでした。

ところが今日(こんにち)では、多くの政治家がお釈迦様のことを共産主義者だとか資本主義者、帝国主義者などと言い、政治にお釈迦様の名前を持ち込んで、利用しようとしています。彼らは、現代の政治思想はお釈迦様の時代の相当後になってから西洋でつくられたものであるということを忘れているのです。

私利私欲で、お釈迦様の偉大なる名前を利用しようとする人たちは、「お釈迦様は世俗的な事柄をすべて超越し、究極の覚りを開いた正自覚者である」ということを思い起こさなければなりません。

宗教を政治に混ぜ込もうとする特有の問題があります。
宗教の基盤となるものは道徳、信、清らかさであり、一方、政治の基盤は主に権力です。これまで長い歴史の中で、宗教はしばしば政権を握る人々や、権力行使の正当性を確保するために利用されてきました。戦争、征服、迫害、非道、暴動、文化や芸術品の破壊を正当化するために、宗教が利用されてきたのです。

治的な意図に利用されるとき、宗教はその高尚な道徳観を捨てなければならず、世俗的な政治の要求のために道徳の価値を貶めることになるのです。

仏教の政治観

仏教は、新しい政治機関や政治体制を創ることについて指示することはしません。基本的には、社会を構成する個人を改善することにより、また社会が国民の福祉を改善し、資源を公平に分配し、人間の尊厳や理性を重視するよう、教えを示すことによって、社会の諸問題にアプローチするのです。

政治が国民の幸福や繁栄を保護することには限界があります。
どんなに理想的な政治に見えたとしても、国民が欲や怒り、無知に支配されている限り、政治が平和や幸福をもたらすことはできません。

さらに、たとえどんなによい政治体制があったとしても、人々が必ず経験しなければならない普遍的な要素があります。それは、

 ・善悪の業(kamma)の影響、そして
 ・世の中は無常(anicca)・苦(dukkha)・無我(anatta)に特徴づけられているのだから、真の満足も永続する楽もない

という二つのことです。仏教は「天界にも梵天界にも、輪廻の中にはどこにも本物の自由はない」とみなしています。

基本的人権を保障し、権力の利用に抑制と均衡が保たれている正しい政治体制があることは、社会の幸福には重要な条件でしょう。だからといって国民は、自由を完全に保障してくれる絶対的な政治を探し求めることに時間を浪費すべきではありません。

完全な自由というものは、どんな制度の中にも見出せるものではなく、「自由な心」の中にしか見出せないのだから。

真の自由が得られるのは、自分の心を観察し、無知と渇愛の鎖から解き放たれるほうへ努力するときです。善い言葉と善い行動を通して人格を育て、心を鍛え、心の可能性を引き出し、覚りという究極の目的に達するために仏教を用いるときにのみ、真の自由が得られるのです。

これまでのことから、「政治から宗教を切り離すことは重要である」こと、また「政治が国民に平和や幸福をもたらすには限界がある」ことが理解できると思います。

 (続きます)

Buddhism and Politics by Ven Dr K Sri Dhammananda Nayaka Thero