2018/10/29

1分間瞑想②



1分間瞑想①」の続き


私は気づきのことを「応急用具」と呼んでいます。
みなさんは指を切ったり、やけどをしたら、どうし
ますか?
すぐに救急箱を持ってきて手当てをするでしょう。
心の場合も同じです。

悩んだり、激しく動揺したり、混乱したり、精神的に苦しんだりしているときには、なんらかの応急処置をして、心を健全な状態に戻さなければなりません。

もし、心の苦しみにたいして何も手当てしなければ、身体の傷のように、苦しみが悪化するでしょう

最悪の場合、うつ病やノイローゼに陥ってしまう可能性があります
そして心の苦しみは、胃の疾患や心臓病などさまざまな病気として身体にあらわれることもあるのです。

心のなかではさまざまなことが起こっています。

深刻な病気を患ったときはじめて、これまで「人生を混乱した心ですごしてきた」ことを振り返るようになるのです。



グナラタナ長老〔著〕/出村佳子〔訳〕



したがって、病気になる前に、どこにいるときでも、常に気づくようにしてください。

「定期的な瞑想」とともに、日常生活のなかにこの「1分間の瞑想」を加えるとよいでしょう。こうやって心を訓練するのです。


心がいらだったら、いらだったまま行動しないでください。

一度立ち止まり、いらだちに対処してから、次の行動をするのです。

 仏教Q&A『1分間瞑想②』
グナラタナ長老
翻訳:出村佳子

2018/10/26

智慧と善行為⑥

2018年10月26日更新、2012年6月24日作成


意志の汚れ


意志は、重要な働きです。どんな行為も意志から生まれています。問題は、私たちの意志が汚れているということです。




人に会うときには、きれいな服を着てかっこよく見せたいでしょうし、ごはんを食べるときは、よりおいしいものが食べたいでしょう。欲しいものを買う場合は、できるだけ値段が安いものがいいですから店員さんに値切ったりもするでしょう。

私たちには常に意志が働いていますが、その意志は貪・瞋・痴で汚れています。「貪」は欲、「瞋」は怒り、「痴」は無知です。

意志が汚れていますから、私たちの行為はほとんど悪行為になります。貪・瞋・痴で生きているかぎり、行為はすべて悪行為になるのです。


 貪・瞋・痴のブレーキ



皆さまも経験があると思いますが、善い行為をしようとすると、心にちょっとブレーキがかかるということが起こります。あのブレーキはなんでしょうか? 


たとえば、「お年寄りの方が電車に乗ってくると若者はタヌキ寝入りしますよ」と若者に悪口を言う人がいます。私はそう思っていません。

日本の若者はそんなに悪くないんです。では、なぜタヌキ寝入りするのでしょうか? 

どこかでブレーキがかかるのです。「どうぞ座ってください」と言えないのです。ポイントはそこです。あれが貪・瞋・痴です。

他の人が見ていますし、もし「結構です」と断られたら恥ずかしくて立場がないですし、あるいは譲っても座らないでしょうとか、自分も疲れているからこのまま座っていてもいいんじゃないかとか、いろいろ理屈をつくって席を譲らないだけです。

お年寄りなんか知ったことじゃないよ、とそんな気持ちはありませんし、別に悪い人ではないのです。

でも善行為はしません。それは貪・瞋・痴がブレーキをかけているからなのです。

そこで、東日本大震災のような大災害が起こると、もうブレーキがかけられない状態になって、みんな一斉にワーッと善いことをし始めるのです。ブレーキはもう機能しません。

普段はすぐにブレーキをかけます。何か善い行為をしようとすると、恥ずかしくてどこかでためらってしまうということがあるのです。このためらう気持ちが貪・瞋・痴です。

そこで、「善行為をするたびに、自分の貪・瞋・痴を戒めている」ということをおぼえておいてください。

善行為をすることで、自我がなくなって恥ずかしさも消えて、花が咲いたように明るくなります。

お年寄りの方が電車に乗って来たら、「どうぞどうぞ座ってください」とサッと席を譲ることもできます。

声をかけたところで相手の方に「次の駅で降りますから」と断られたら、「そのあいだだけでもどうぞ」と、すごく明るく言ったり、あるいは「私は立ちたくてたまらなかったんです」などと言うと、お年寄りの方も「若いのに、いい方ですね」と楽しくなります。

お互い、すごくやさしい世界が生まれます。それで電車に乗っていた五分間は最高に幸福な五分間になるのです。

そういうわけで、貪瞋痴を戒めなくてはなりません。そのために善行為をする。

善行為をすると、智慧が現れてくるのです。(続きます)


根本仏教講義「智慧と善行為⑥」
スマナサーラ長老法話

2018/10/23

智慧と善行為⑤

2018年10月23日更新、2012年6月24日作成

善悪の行為は意志で決まる



生きるとは、行為をすることです。
行為は、どんな行為であれ、意志(心)がないと起こりません。

「食べたい」という意志がなければ、食べる行為はありません。

呼吸をするときも、ずっと意志が生まれ続けています。息を吐き終わった瞬間に息を吸っていますが、そこにも意志が働いています。すべての行為は意志でおこなっているのです。






生きるとは、行為をすることです。
そして行為はすべて、意志から生まれます。「立ちたい」という意志がなければ立ちませんし、「話したい」という意志がなければ話しませんし、「歩きたい」という意志がなければ歩きません。

それから、意識的にわかる意志もありますし、わからない意志もあります。呼吸の場合は明確で、意識して呼吸をすることもできますし、意識しなくても呼吸はしています。

意識する・しないかにかかわらず、意志はいつでも働いているのです。

心臓も同じです。意志が働かないと、心臓は動きません。
でも私たちがいちいち意識して「はい膨らみましょう」「次は縮みましょう」などと考えていると生きていられませんから、そこはオートモードになっています。意識的にわからないだけで、本当は意志が管理しているのです。

たとえば、何か怖いことが起こると心臓はどうなるでしょうか? 

ドクンドクンとするでしょう。意志が管理しているからです。

すべての細胞の動きは、意志がやっています。また、その行為は心と身体に影響を与えます。

心と身体に善い影響を与えたいと思うならば、当然、善い意志で善い行為をしなくてはいけないのです。

しかし、生命はもともと心が汚れていますから、自然に悪い意志を起こして、悪い結果をだす行為を簡単にしています。


一般的に、「善行為に善果・悪行為に悪果」と言われていますが、お釈迦様は、「善い意志でおこなう行為には善い結果。悪い意志でおこなう行為には悪い結果」がおっしゃっています。

行為そのものよりも、「意志」に注意したほうがよいのです。

たとえば、義捐金として、ホームレスの人が1000円寄付し、大企業の社長が10,000,000万円を寄付したとしましょう。どちらの善行為が、より価値の高いものになるのでしょうか?

この判断は、「善行為をしたい」という意志によって決めなくてはいけないのです。

ホームレスの人の1000円は、もしかするとその人の全財産かもしれません。ごはんも食べられなくなるかもしれません。ですから、寄附行為をするときは、強い意志が必要だと言えるのです。

大企業の社長の場合は、全財産ではないのです。家計が苦しくなることも、飛行機に乗るお金がなくなることもないでしょう。ですから、それほど強い意志が必要ありません。

金額は1000円かもしれませんが、「全財産」をあげたホームレスの人のほうが善行為の価値が高くなるのです。

行為の結果は表面的なかたちではなく、内面的な意志によって決められるのです。

したがって、派手な行為が善い行為というわけではありません。どのくらい財産を持っているか、どのくらい派手なことをしたか、そのようなもので徳の大きさが決まるのではありません。自分の意志で決まるのです。
 (続きます)


 根本仏教講義「智慧と善行為⑤」

2018/10/20

功徳と善に完成はあるか?「善悪とは?③-1」


功徳と善に完成はあるか?


「功徳(puñña)」にも完成はありません。

いわゆる人を助けたり、ボランティアをしたり、お布施をしたりなど功徳行為しても、完成することはできません。

自分が精一杯やっても、もっとできるからです。

たとえば困っている人を助けるとしましょう。何人助けられますか?

限りがあるのです。ですから功徳行為は完成することができません。

2018/10/19

悪と不善に完成はあるか?「善悪とは?②-2」

悪と不善に完成はあるか? 


次に「完成」ということについて考えてみましょう。
悪と不善に「完成」はあるのでしょうか?


悪行為は激しく命を破壊し、不善行為は徐々に破壊します。


悪行為の場合、たとえば他人を殺したら、自分の命もそれで終わりです。社会から逃げても隠れても無駄です。自分がやった悪行為が、毎日自分を破壊していくのです。


不善行為とは判断を間違えたり、失敗したり、下手で何をやってもうまくいかず、結果がダメなことで、そうなってくるとじわじわと自分の人格が下がっていきます。

2018/10/18

「善悪」とは?②-1


悪と不善・功徳と善の関係 


図を見てください。

図:スマナサーラ長老


左上のギザギザの図が、「悪と不善の関係」です。

2018/10/17

【更新】


根本仏教講義『智慧と善行為』を一部アップデートしました。

 智慧と善行為
智慧が開発するか否か?
智慧のある人
調和し、補い合い、協力する
ネットワーク

  生きとし生けるものが幸せでありますように 

2018/10/15

1分間瞑想①



質 問

瞑想会ではみなが瞑想していますから瞑想しやすいのですが、自宅に帰り、日常の忙しい生活に戻ると、気づきと静寂を保つことができなくなります。
どうすれば日々の忙しい生活のなかで瞑想することができるでしょうか?

「1分間マインドフルネス瞑想」グナラタナ長老〔著〕出村佳子〔訳〕


A:回 答――グナラタナ長老

「気づき(マインドフルネス)」を保つ方法のひとつとして、ペースを落とし、スローモーションで生活することがあります。

スローモーションを実践することは、お寺にいるときでも、自宅にいるときでも、どこでも実践できるでしょう。

人は世界平和を築くことについてよく語りますが、心に平和を築くこと――心を健全で穏やかにすること――に関心をもつべきです。こうした善い心は、気づきから生まれるのです。

職場にいるときや静かな場所で長い時間坐ることができないときには、数分だけでも気づきを実践するとよいでしょう。

だれでもできる実践法があります。私はこの方法をすすめています。

1日のなかで1時間ごとに、1分間だけ気づきの実践をするのです。59分間はいつもどおりに仕事をし、1分間休憩をとって、心を呼吸にしっかりと集中させるのです。 

できれば、目を閉じてください。

忙しいオフィスでデスクワークをしている場合は、目を開けたまま前方の一点を見つめるとよいでしょう。 そのまま静かに心のなかで呼吸を15回数えます。そうするとだいたい1分くらいたっているでしょう。

その1分間は将来の計画をたてたり、何かを考えたりしないでください。思考から完全に心を解き放つのです。


1分間たつと、心はいくらか明晰になるでしょう。

これからの59分間、仕事にとりくむ強さが得られました。その後「1時間たったらまた1分間、気づきの瞑想をしよう」と心に誓ってください。

台所や事務所にいるときでも、この1分間の気づきの瞑想をすることができます。

駐車場に車をとめてエンジンを切ったときにもできますし、トイレ休憩のときにもできます。

8時間仕事をしているなら、この1分間の瞑想を1日おこなうと、仕事が終わるまでには8分間瞑想したことになります。1日の終わりには普段のように緊張したり疲れたりすることがないでしょう。

さらに、心理的にも肉体的にも、より生産的で、より健康的に1日をすごすことができるのです。
私たちは自分の心の主導権を握っています。ひとりひとりが落ち着いて行動することを学ばなければなりません。

社会ではマインドフルでない人が大多数を占めています。もしあなたがその中に入ってしまったら、すぐに堕落してしまうでしょう。その罠に陥らないよう、気をつけてください。

自宅にいるときでも、瞑想センターにいるときでも、車に乗っているときでも、スーパーのレジで順番を待っているときでも、どこにいても、気づいてさえいれば、気づきはストレスや苦しみが起こらないよう心を守ってくれるでしょう

 (続きます)

2018/10/12

仏教の「悪」の定義「善悪とは? ①‐2」


仏教の「悪」の定義


「悪」の定義は何でしょうか?
それは、「自分と他の生命にたいして迷惑な行為をすること」です。

ここで理解してほしいのは、仏教では対象は「自分」と「他の生命」だということです。自分に迷惑な行為をすることも、悪であり罪なのです。


皆さんは他の生命をいじめることは罪だと知っているでしょう。自分で自分をいじめたり害を与えたりすることも罪なのです。


このように、仏教の悪の定義とは自分と他の生命に迷惑をかけることです。仏教心理学から、この定義を設定しているのです。

2018/10/09

善悪の勉強「善悪とは? ①‐1」


まず善悪の勉強から始める


私たちは善と悪について新たに理解すべきです。みながよく言っている「世界は悪(善)で満ちている」などのセットフレーズに乗るのではなく、実際に「善とは何か、悪とは何か」をちゃんと理性で理解したほうがよいのです。

仏教では、善には二種類あり、悪には二種類あります。それぞれどのような意味なのかを学んでみましょう。

2018/10/07

【Q&A】ブッダの教えとは?②

グナラタナ長老への質問


【Q&A】ブッダの教えとは?① の続き


もちろん、ブッダが説いた気づきの瞑想を知らなくても、人は自分の人生経験から智慧をいくらか得ることもできるでしょう。智慧はいつでも起こりうるものです。
賢い人は、自分の過ちや失敗から学ぶこともできるでしょう。また、なかなかやめられずに続けてしまう愚かで軽率な失敗をくり返すのをやめることもできるのです。

しかし、残念ながら、世の中は混乱した教えや混乱した人、混乱した影響でいっぱいです。混乱した教えや思考は、人を迷わせます。それで多くの人は何を受け入れるべきか、何をやめるべきかを判断しきれなくなっているのです。


『ブッダの教えとは?』グナラタナ長老〔著〕出村佳子〔訳〕
『パティパダー10月号』


ブッダの「道」



こうした混乱の中、ブッダは「道」明確に示されました。どのような「道」でしょうか?



まず、「道」の基盤となる戒律(戒)です。私たちはこの戒律を守らなければなりません。

「道」を歩み続けるために必要なものが、心の強さ――集中力(定)です。

そして「道」を歩んでいるときに持つべき目標が、智慧(慧)なのです。

この「道」の到達点(ゴール)は何でしょうか? 
「覚り」であり「解脱」です。苦しみが完全に滅した境地なのです。



 これが唯一の道である。

 見を清らかにするために、

 これ以外に道はない。

 この道を歩むがよい。

 マーラを迷わせるであろう。

 

 この道を歩めば、

 苦しみが終わるであろう。

 矢(欲)の抜き方を知り、

 私はこの「道」を説く。


 ダンマパダ274-275



 Ese va maggo natthañño,

 dassanassa visuddhiyā;

 Etañhi tumhe paṭipajjatha,

 mārassetaṃ pamohanaṃ.

 

 Etañhi tumhe paṭipannā,

 dukkhassantaṃ karissatha;

 Akkhāto ve mayā maggo,

 aññāya sallasanthanaṃ.

       

 Dhammapada 274-275