2019/01/28

自己を観察し、平等を理解する(善悪とは?⑤-1)


差別することは悪行為です。

世の中の人は他人を差別し、指をさして、非難合戦ばかりしています。

でも、相手に指をさすとどうなりますか?



1本の指を向ければ、3本の指は自分に向いています。「悪いのはお前だ」と言って相手をさすと、残りの3本は自分をさしています。

ですから、他人を非難することはあまりにも愚かな行為です。



「生命」の定義



生命には貪瞋痴があります。

その貪瞋痴によって、生命は輪廻転生しています。

これは生命の定義でもあります。

貪瞋痴があるものを「生命(sattā)」といい、貪瞋痴がなければ「生命」ではありません。



ですから聖者は「生命(sattā)」とはいいません。

聖者には特別な仏教用語があり、「ariya」という言葉を使っています。

これは「乗り越えた」という意味です。


「sattā」は、日本語では「衆生」や「有情」という訳語になります。

感情があること、つまり貪瞋痴があるという意味です。


貪瞋痴の強度によって、区別が現れる
 
貪瞋痴の量は、生命によって異なります。貪瞋痴が働くためには、身体が必要ですからね。身体で貪瞋痴が制限されるのです。


たとえばアリが怒っても、人を殺すことはできませんし、スズメが怒っても、人を殺せません。


でも、人が怒ると、アリやスズメの巣をまるごと壊して、潰すことができるのです。この差です。貪瞋痴を動かす能力によって、貪瞋痴の強弱やランクが異なるのです。私たち人間の貪瞋痴と、アリやスズメの貪瞋痴の強さや量は違うのです。


他の生命を非難するのは愚かな行為



だからといって、人がアリやスズメを非難し、ばかにするのは間違っています。

「生命みなに貪瞋痴がある」ということは、すべての生命に共通していることです。

ですから、貪瞋痴で生きている生命が、他の生命に指をさして、ばかにすることは、とんでもない愚かな行為です。



たとえばアリに向かって、「お前は小さいからたいしたことができない」とか、ヘビやコブラにたいして、「身体が小さいのに瞬時に人を殺して、お前はとんでもないやつだ。殺される前に、お前を殺してやる」などと考えることは愚かなことです。

アリも、ヘビも、コブラも貪瞋痴で生きています。

人も、貪瞋痴で生きています。

みな同じ貪瞋痴で生きているのです。そこに差はありません。





自己を観察し「平等」を理解する


私たちはみな平等です。この平等ということを理解するために、自己観察をしなければなりません。

自分のこころを観察してみてください。

そうすると、欲があること、怒りがあること、嫉妬や怠けがあること、無知があることが見えてくるでしょう。

このとき「あー、気持ち悪い」と見るのではなく、「みな同じだ」と見るのです。

誰だって貪瞋痴があります。強弱やレベルの差があるだけです。



それから、「私は嫉妬深い。なんて情けないか」と見るのも、正しい自己観察ではありません。

そうではなく、「私に嫉妬がある。嫉妬がちょっと強い。嫉妬はどんな生命にもある……」とそのように自己を観察すると、落ち込むことがなくなります。

「生命は平等だ」ということがわかるのです。



これが「区別はあるが、平等」ということです。

差があるのに、平等だとわかるのです。

差異があって平等なんです。区別があって平等なんです。

これは現代社会で言われている、いい加減な平等ではありません。



こころの広い人になる



こころの広い人は他人に指をさしません。「あー、そういうことか」と理解して落ち着いています。

たとえば自分の子供が万引きして警察につかまっても、混乱したり、焦ったり、大声で怒鳴ったりしません。

落ち着いていると、子供のこころの中が見えてきます。

この子はこころに何か怒りがあってやったんだ、ということが。

だいたい子供が万引きするのはカネやモノが欲しいからではありません。それは大人です。

子供の場合、中学生や高校生になるとだんだん勉強についていけなくなって、学校がいやになって、遊びたくなるんです。

でも遊ぶカネがなくて万引きしてしまうというのが本当なんです。

子供はカネそのものが欲しいわけではありません。

こころに何か別の問題があるのです。

社会にたいして、親にたいして、学校にたいして反発したい、暴動を起こしてやりたいという別な衝動があるのです。

しかしまだ子供ですから、悪い行動をしたら自分が破滅するということは理解できません。

親や学校に迷惑かけたいと思って万引きして、わざとつかまるのです。

学校はそれなりにうまくごまかすかもしれませんが、子供の人生はそれでかなり苦しくなるのです。



そこで、こころが広い親だったら、子供の本当のこころがわかります。

そうすると、解決策が見えてきます。

子供をいきなり怒鳴ったり、非難したりしません。

落ち着いたこころで、「もし今度何か問題があったら言ってください。私はあなたの味方です。私に言いたくなかったら、信頼できるだれか年上の人に言ってください。学校に相談しやすい先生がいるなら、その先生に相談してください」と言います。

それで、何か解決策が見えてくるのです。

このように、「平等」ということを正しく理解すれば、世の中のさまざまな問題は解決できるのです。


(続きます)



2019/01/26

脳は「有る」ことのみを認識する(智慧ある人は愉しんで生きる①) 


最初に、仏教を学ぶ上で重要なことを一つ説明しておきたいと思います。仏教の概念を知識として勉強するのは簡単ですが、それだけで真の幸福は得られません。たとえ膨大な量の経典を読み尽くし、暗記したとしても、なんの意味もないのです。
そこで仏教を、単なる理論や理屈、思想として受けとるべきではありません。身をもって実践し、理解し、性格を改善して苦の問題を解決しなければならないのです。お釈迦さまはこのように説かれました。「少しの知識でも、それを実践しなさい。実践する人こそ、真の知識人です」と。教えを実践して真理を体験、体得すれば、大きな幸福が得られるのです。


脳は「有る」ことのみを認識する


私たちは「有る・無い」という二つの極端な見方で、ものごとを捉えています。というより、脳は、そのようにしか理解できない構造になっているのです。


「ものが有る」という見方については、皆さん簡単におわかりになると思います。本がある、花がある、私がいる、人がいるなど、この世に存在するすべてのものに対して、私たちは何の疑いもなく「有る」と思っています。では、この「有る」という認識はいかにして生じているのでしょうか?


これは、私たちの感覚器官である「眼・耳・鼻・舌・身」に、外界の情報「色・声・香・味・触」が触れることから生じているのです。外界の情報が感覚器官に触れると、脳が機能して「有る」と知ります。情報が触れなければ、脳は機能しませんから「無い」となるのです。


具体的に言うと、耳に音が触れると「聞こえた」という認識が生まれますが、触れなければ何も聞こえません。肌に何かが触れると「触れた」と知りますが、触れなければ何も知りません。


公園で花を見ているとしましょう。このとき、眼と花の色が触れて「見えた」と認識します。そして「花が有る」と知ります。そこに、猫が走ってきました。花に向いていた眼は、猫に移動します。そして眼と猫の色形が触れて「猫がいる」と知るのです。このとき、さっきの花に対する認識は消えていますが、脳は目の前の猫に囚われているため、そのことに気づきません。そこに、大きな物音が聞こえました。音が耳に触れて「音」と認識します。このときも、さっきの猫や花に対する認識は消えていますが、脳はそのことに気づかず、いま聞こえている音を認識しているのです。

このように、脳が刺激されるのは情報が感覚器官に触れたとき、つまり「有る」という瞬間だけなのです。そしてこの「有る」という瞬間だけを見て、私たちは「ものが有る、存在する」と固定的、断定的に決めつけているのです。


では、次の図を見てください。何が見えるでしょうか?



●●●●●●●●●●●●


たぶん、黒い円が連続してあるとか一列に並んでいる、などと答えられると思います。でも、よく見てください。円と円のあいだに隙間があるでしょう。空間があるのです。しかし脳は空間を無視して、黒い円だけを認識しようとします。脳は真っ先に「有る」の部分を見よう、知ろうとするのです。先ほどの例でも、脳が知っているのは、花が有る、猫がいる、音が有る、などのように「有る」の瞬間だけなのです。「無い」という瞬間には気づきませんし、知り得ないのです。

『智慧ある人は愉しんで生きる①』A. スマナサーラ長老 法話


「無い」は推測

次に、もう一つの見方「無い」について検討してみましょう。もし、「ふりこ」があったら用意してください。ふりこの左側と右側に両手を置き、眼を閉じてください。ふりこに力を加えると、ふりこは左のほうに移動して左手にパンとぶつかります。このとき脳は、「触れた」と知ります。次にふりこは左手から離れ、右のほうに移動して右手にパンとぶつかります。「触れた」と知ります。また離れ、左のほうに移動して、左手にパンとぶつかります。「触れた」と知ります。脳は、ふりこが手に触れた瞬間のことしか知りません。しかし、ふりこが左手に触れる、離れる、右手に触れる、離れる、左手に触れる、離れる、と繰り返しているうちに、「次は右手に触れるだろう」と推測するようになるのです。そして「有るだけではなく、無いという瞬間があるのではないか」と考えつくのです。ただ、この「無い」という認識は、経験ではなく、あくまでも推測です。

もう一つ例を挙げましょう。
腕時計を見てください。皆さんは何も疑わずに、腕時計が有ると思っているでしょう。ではそれを、長針、短針、文字盤、ベルト、電池など、ばらばらに分解してみてください。腕時計はどうなるでしょうか?


無くなるのです。長針だけをとって「これは腕時計です」とは言えません。短針も、文字盤も、ベルトも、電池も、単独では腕時計だとは言えません。つまり分解すると腕時計は無くなってしまうのです。とすると、腕時計は初めから無かったということではないでしょうか?

このように、どんなものでも分解することができます。そして分解すればするほど、いまある状態が無くなってしまうのです。


お釈迦さまが生きていた時代のインドには、このような複雑なことを思惟し、考察していた哲学者や思想家、宗教家たちがいました。彼らは「すべてのものは無の状態まで分解できる。存在するのは無だけだ。無こそが真理である」と考えて、その概念を強調しました。

「有・無」の超越

そこでお釈迦さまはこう考えました。人間は、有・無という両極端でしか、ものごとを捉えられない。真実は何なのか? そして、「超越」という立場を発見されたのです。これが因縁の教えです。


先の腕時計を例にとると、腕時計は、必要な部品を、ある一定の法則で組み立てることによって成り立っています。


それぞれの部品を、でたらめに接着剤でくっつけるだけでは、腕時計としての機能は果たしません。法則があるのです。長針と短針は文字盤の上に置かなければなりません。その上に透明のカバーを置き、両側にベルトをつけ、見えないところに電池を入れるというふうに。このように一定の法則に従って組み立てると、腕時計になるのです。

それから、自然のものは常に法則に適っています。花の種を蒔くとどうなるでしょうか?


水や栄養素など必要な要素を充分に与えているなら、やがて芽が出て、葉が出て、花が咲くでしょう。この順番は変えられません。芽が出ていないのに花が咲くということは絶対にあり得ないのです。


お釈迦さまは、この「法則」を発見されました。自然も、人間の思考プロセスも、すべてのものは丁寧な順番で組み立てられている。ものが「有る、無い」と断定的に見るのはいい加減だ。真実は、その場その場でさまざまな情報が組み合わさって成立している、と。

ですから、花を見て「花が有る」と実体化して見るのは間違っています。花は刻々と変化しつづけているのです。咲いている花はだんだん萎み、枯れてゆきます。同様に「私」というものも瞬間々々変化しています。「私が存在する」とも「私が存在しない」とも言えません。これが因果法則であり、仏教の真理なのです。

極端な見方から苦が生じる

これまでお話してきたように、私たちは、「有る・無い」という極端な見方でものごとを捉えています。そしてこの見方から貪・瞋・痴が起こり、悩み苦しみが生まれているのです。

たとえば「Aさんがいる、Aさんは魅力的だ」と考えると、そこからさまざまな苦しみが生まれてきます。話しがしたい、どうすれば話せるだろうか、どうすればつきあってもらえるだろうか、とあれこれ考えて悩むことになります。そこで思いきって声をかけて仲良くなれたとしましょう。苦しみは消えるでしょうか? 消えません。今度は嫌われないように気を使ったり、関心を買うためにいろいろ努力しなければなりません。別の苦しみが生まれてくるのです。また、仕事が忙しくて会う時間がなかったり、転勤で遠くに引っ越してしまうと、今度は「Aさんがいない」ということで、さらに苦しむのです。このように「いる、いない」と固定的に見ることから、大変な苦しみが生まれてくるのです。


それから「自分には財産が有る」と金持ち気分で威張っている人もいるでしょう。しかし、そういう人たちも、多くの苦しみを抱えているものです。お金を盗まれないかと絶えず警戒し、人目のつかないところに隠したり、玄関に防犯カメラを取り付けたり。また、金持ちのなかには所得を偽ったり過少に申告して金持ちになっている人も少なくありません。しかしそういう人たちは、おおやけで堂々と買いものをすることができません。家や車など大きなものを購入すれば、申告していないことがすぐにばれてしまいますからね。ですから欲しいものを買わずにお金を隠しておくのです。


それで、ある日、家に泥棒が入ってお金を盗まれたとしましょう。今度は「お金が無い」ということで、ものすごく苦しむのです。もっと苦しいのは、警察に通報しても隠しておいたお金のことは言えないことです。別のもの、たとえば宝石をいくつか盗まれたとか財布を盗まれた、ということぐらいしか言えません。それに、たとえ泥棒が捕まったとしても、隠していたお金を返してくれとは言えないでしょう。それでさらに苦しむのです。(続きます)

A. スマナサーラ長老 法話
『智慧ある人は愉しんで生きる①』
パティパダー誌「根音仏教講義」にて連載
文責:出村佳子


2019/01/25

「不満の理解」が心を向上させる(希望と欲望⑦-1)

 
仏教が教えている「正しい希望」とは、「具体的で、合理的な、実行できる希望を持ち、それを達成できるよう、日々努力すること」をいいます。


人のいちばん悪いところは、心です。心が汚れていて、考え方が正しくないから、いつでも失敗するのです。


ですから、常に正しくものごとを考え、正しく判断できるよう、自分の思考を直すこと、言い換えれば、貪・瞋・痴など悪い感情をなくしていくこと、これを目的にして努力することが正しい希望なのです。


同時に、「より立派な人間になろう」という目的を持つようにしてください。


「このままでいい」と思うのではなく、「今の私の状態は不満です。ほんの少しでもいいから昨日より良くなるように努力しよう」と、ポジティブな目的を持つのです。


この点に関しては、不満でもかまいません。


そこで、今の不満がなくなったら、また次の不満が生まれてくるでしょうから、そのときはまた、「もう少し良くなろう」と頑張るのです。


このように、不満を観察してみてください。不満を理解することによって、「より良くなろう」という希望と精進が生まれてきます。ですから、不満は希望であるとも言えるのです。


仏教は、不満をなくすことを教えていますが、だからといって、不満が悪いというわけではありません。不満を理解することによって、人は成長することができるのです。


不満のことを、パーリ語で「Dukkha(ドゥッカ)」と言います。「Dukkha」は私たちが解脱するまで付いてくるものです。この「Dukkha」を理解することによって、心は成長し、進化することができるのです。


仏教では、徹底的に、あらゆる面から不満を理解しなさいと教えています。そうすれば、「その不満を何とかしなくてはいけない」という希望が生まれてくるからです。







ある経典で、お釈迦様は比丘たちにこうおっしゃいました。


「もしどこかのお坊さんが悟りを開いたと聞いたなら、悔しくなってでも、慢心を持ってでも、自分も悟れるように精進しなさい」


あの人にできたのになぜ私にできないか、あの人に努力できたのになぜ私に努力できないか、このように他人と比べることは慢心であり、ほんとうは悪いことなのですが、ある経典でお釈迦様は、そういう気持ちを持ってでも、解脱するために頑張りなさい、とおっしゃっています。


これは「欲をもって、欲を戒める」ということで、「自分も悟りたい」という欲を作るのです。隣のお坊さんが悟ったらすごく悔しい。「私もやるぞ」という大きな欲というか、希望を作って頑張るのです。



世俗的な幸福も、同じ道です。正しい希望を持ち、朝晩まじめに仕事をすれば、経済的にも社会的にも豊かになるでしょう。


「頭をしっかりさせたい」と希望する人は、日々、勉強しますから頭が良くなるでしょうし、反対に、自分は一流大学を卒業して卒業証書をもらったからそれでいい、と終わる人は、怠けて勉強しませんから、どんどん頭が悪くなるでしょう。


私たちは常に上へ上へと向上し、それ以上、上がない頂点に達するまで、日々、精進し続けなければならないのです。



正しい希望を持って、心の不満を少しずつなくすように努力する人は、最終的に一切の不満をなくし、最高の幸福である解脱が得られるでしょう。


(続きます)

スマナサーラ長老

根本仏教講義『希望と欲望⑦-1』

文責:出村佳子


2019/01/23

自己を観察し、平等を理解する

善悪とは?⑤-1

差別することは悪行為です。世の中の人は他人を差別し、指をさして、非難合戦ばかりしています。でも、相手に指をさすとどうなりますか? 


1本の指を向ければ、3本の指は自分に向いています。「悪いのはお前だ」と言って相手をさすと、残りの3本は自分をさしています。ですから、他人を非難することはあまりにも愚かな行為です。



「生命」の定義



生命には貪瞋痴があります。その貪瞋痴によって、生命は輪廻転生しています。これは生命の定義でもあります。貪瞋痴があるものを「生命(sattā)」といい、貪瞋痴がなければ「生命」ではありません。


ですから聖者は「生命(sattā)」とはいいません。聖者には特別な仏教用語があり、「ariya」という言葉を使っています。これは「乗り越えた」という意味です。


「sattā」は、日本語では「衆生」や「有情」という訳語になります。感情があること、つまり貪瞋痴があるという意味です。



貪瞋痴の強度によって、区別が現れる


 
貪瞋痴の量は、生命によって異なります。貪瞋痴が働くためには、身体が必要ですからね。身体で貪瞋痴が制限されるのです。


たとえばアリが怒っても、人を殺すことはできませんし、スズメが怒っても、人を殺せません。


でも、人が怒ると、アリやスズメの巣をまるごと壊して、潰すことができるのです。この差です。貪瞋痴を動かす能力によって、貪瞋痴の強弱やランクが異なるのです。私たち人間の貪瞋痴と、アリやスズメの貪瞋痴の強さや量は違うのです。




他の生命を非難するのは愚かな行為



だからといって、人がアリやスズメを非難し、ばかにするのは間違っています。「生命みなに貪瞋痴がある」ということは、すべての生命に共通していることです。ですから、貪瞋痴で生きている生命が、他の生命に指をさして、ばかにすることは、とんでもない愚かな行為です。


たとえばアリに向かって、「お前は小さいからたいしたことができない」とか、ヘビやコブラにたいして、「身体が小さいのに瞬時に人を殺して、お前はとんでもないやつだ。殺される前に、お前を殺してやる」などと考えることは愚かなことです。


アリも、ヘビも、コブラも貪瞋痴で生きています。人も、貪瞋痴で生きています。みな同じ貪瞋痴で生きているのです。そこに差はありません。





自己を観察し「平等」を理解する



私たちはみな平等です。この平等ということを理解するために、自己観察をしなければなりません。


自分のこころを観察してみてください。そうすると、欲があること、怒りがあること、嫉妬や怠けがあること、無知があることが見えてくるでしょう。このとき「あー、気持ち悪い」と見るのではなく、「みな同じだ」と見るのです。誰だって貪瞋痴があります。強弱やレベルの差があるだけです。


それから、「私は嫉妬深い。なんて情けないか」と見るのも、正しい自己観察ではありません。そうではなく、「私に嫉妬がある。嫉妬がちょっと強い。嫉妬はどんな生命にもある……」とそのように自己を観察すると、落ち込むことがなくなります。「生命は平等だ」ということがわかるのです。


これが「区別はあるが、平等」ということです。差があるのに、平等だとわかるのです。差異があって平等なんです。区別があって平等なんです。これは現代社会で言われている、いい加減な平等ではありません。



こころの広い人になる



こころの広い人は他人に指をさしません。「あー、そういうことか」と理解して落ち着いています。


とえば自分の子供が万引きして警察につかまっても、混乱したり、焦ったり、大声で怒鳴ったりしません。落ち着いていると、子供のこころの中が見えてきます。この子はこころに何か怒りがあってやったんだ、ということが。


だいたい子供が万引きするのはカネやモノが欲しいからではありません。それは大人です。子供の場合、中学生や高校生になるとだんだん勉強についていけなくなって、学校がいや
になって、遊びたくなるんです。でも遊ぶカネがなくて万引きしてしまうというのが本当なんです。子供はカネそのものが欲しいわけではありません。こころに何か別の問題があるのです。社会にたいして、親にたいして、学校にたいして反発したい、暴動を起こしてやりたいという別な衝動があるのです。


しかしまだ子供ですから、悪い行動をしたら自分が破滅するということは理解できません。親や学校に迷惑かけたいと思って万引きして、わざとつかまるのです。


学校はそれなりにうまくごまかすかもしれませんが、子供の人生はそれでかなり苦しくなるのです。


そこで、こころが広い親だったら、子供の本当のこころがわかります。そうすると、解決策が見えてきます。子供をいきなり怒鳴ったり、非難したりしません。


落ち着いたこころで、「もし今度何か問題があったら言ってください。私はあなたの味方です。私に言いたくなかったら、信頼できるだれか年上の人に言ってください。学校に相談しやすい先生がいるなら、その先生に相談してください」と言います。それで、何か解決策が見えてくるのです。


このように、「平等」ということを正しく理解すれば、世の中のさまざまな問題は解決できるです。(続きます)


A. スマナサーラ長老 法話
善悪とは?⑤-1『自己を観察し、平等を理解する文責:出村佳子






2019/01/19

何を「目的」にするか?(希望と欲望⑥-2)



第一に持つべき目的とは?



私たちは、希望や目的がなければ、なかなか努力しようとしません。だからといって、なんでもいいから目的を持てばいいというのではなく、「正しい目的」を設定することが大切です。

そこで、私たちの一番悪いところは、心です。心が汚くて考え方が正しくないから、さまざまな悩みや苦しみが生まれてくるのです。

ですから、ものごとを正しく考えて、正しく判断できるよう、日々、自分の思考を直すこと、そして、欲や怒り、嫉妬、怠けなど悪い感情を取り除き、心を清らかにすること、これを第一の目的にして、精進することが大切です。

これが、人類が持つべき普遍的な目的です。








世俗社会における目的



それから、私たちは生きる上で、そのときそのとき世俗的な目的を設定しなければならないことがあります。


たとえば、学生なら卒業前に就職先を決めなければなりません。会社の経営者なら会社をいかにうまく存続させていくか、目的を持って行動しなければなりません。


そこで、目的を作るときに考慮すべきポイントが3つあります。





(1) 実行可能かどうか



まず、「自分に実行できるかどうか」ということを計算することです。


自分に実行できそうな具体的な目的を作ることが大事です。実行できない目的をわざわざ作って自己破壊する必要はありません。


私たちには夢や希望、やりたいことがいっぱいあります。だからといって、全部実現できるはずがありません。ですから、自分に実行できる具体的な目的を作ってください。そして、その目的に達するよう、しっかり頑張るのです。


それを達成したら、次にまた新しい目的を作ればよいのです。


たとえば、物理や工学が苦手な人は、エンジニアになろうと思わないほうがいいでしょうし、生物が分からない人は、医者になろうと思わないほうがいいでしょう。


エンジニアも、医者も、世間から見ればかっこいいかもしれません。だからといって「自分もなりたい」と思ったら大間違いです。自分が本来持っている能力もなくなってしまうでしょう。


科学よりも文学に強い人は文学で頑張ればよいですし、文学や歴史、政治が苦手な人は、理工系で頑張ればよいのです。かっこいいからとか、いま流行っているから、みんながやっているからといった理由で決めるのはよくありません。



日本でサッカーが流行りだした頃、男の子たちはみんなサッカーボールを蹴って遊んでいました。お母さんたちも「自分の子供をサッカー選手にする!」と張り切っていました。私はそれを見ておかしくて笑っていたのです。あれはマスコミが人気を作っただけです。人は何でも鵜呑みにする傾向がありますから、お母さんたちはマスコミが宣伝する人気に引かれて「息子をサッカー選手にする」と考えるようになったのです。

だからといって、簡単にサッカー選手になれるでしょうか? 

なるには、走るのが速くて、体力があり、筋力や瞬発力、持久力、ボールを上手にコントロールする能力などさまざまな能力が必要です。

ですから、いくらサッカー選手がかっこよく見えても、自分がなれるかというと、それは雲の上の話です。


人気があるからとか、みんながやっているから自分もやりたい、という目的はよくありません。誰にでも、自分にできることがひとつぐらいはあるはずです。その自分にできることを見つけて、目的にすればよいのです


スポーツや勉強が苦手でも料理が上手なら、料理の腕を磨いて専門家になればよいのです。プロになれば、それなりに社会に役立つことができます。ですから、まず、自分に実行可能なことを目的に設定してください。






(2)道徳的かどうか



次に、「道徳的な目的」を持つことです。いくら目的が自分に実行可能であっても、それが「道徳的かどうか」ということを考えなくてはなりません。

つまり、他の生命に害を与えてはならない、ということです。

たとえば、声がきれいだから声楽家になりたいといって、昼夜、大声で発声練習をしていると、それは周りの人に迷惑です。声楽家になりたいなら、他人に迷惑をかけずに目的を達成することが大切です。






(3)自然や環境を破壊しないかどうか



利益を増やしたいとか、会社を発展させたいと考えて、自然や社会のシステムを破壊するような目的を作ってはなりません。

たとえば、現代はごみの問題や二酸化炭素の問題などがあります。いろいろな家電メーカーが、とにかく自社の製品を売って儲けることを目的にして、新しい製品を次から次へと大量に生産しています。消費者もそれに合わせて新しい物へ買い換えていきます。

生活が便利になることは悪いことではありませんが、新しい製品を作れば、当然、古い製品の廃棄の問題が出てきます。

古い製品はどこに捨てるのでしょうか? どのように処分するのでしょうか? 

自然や環境のことは何も考えていないのです。ただ自分の会社の利益のみを考えて物を生産すると、それは自然を破壊し、結局、生活環境を汚染することになるのです。





地球スケールと個人スケール



仏教は、自分勝手に目的を決めることは認めていません。私たちは生きる上で何らかの目的が必要ですが、その目的は「自然、社会、人類に害を与えないこと」でなくてはならないのです。


害を与えない商売なら、決して倒産しません。なぜ会社が倒産するかというと、会社の目的が間違っているか、あるいは作る品物が人々に必要ないかのどちらかです。


多くの場合、必要のない物を作っています。仏教では「人類に必要な物、なければ困る物を作ってください」と教えています。そうすれば、わざわざ誇大宣伝して強引に物を売るという問題は出てきませんし、いくら経済状況が悪くてもみんな買いますから、会社が倒産することはないのです。ですから正しい目的を持って正しく頑張ると、倒産する恐れがないのです。


目的には「個人スケール」と「地球スケール」の二つがあります。


「個人スケール」とは、たとえば旦那さんが「家族が楽に、生活できるよう、正しく頑張って仕事をして稼ごう」と小さなスケールで考えることです。家族のことしか考えていないからといって、これはわがままな考えではありません。


しかし、三菱やソニーなどの大企業が「自分の会社だけ儲かればいい」と小さなスケールで考えると、それは自然破壊につながります。


また、国家が自分の国だけよければいいと思ったら、その国は崩壊してしまうのです。


個人や家族の場合は小さな目的でもよいのですが、大企業や国家レベルになると、地球スケールで物事を考えなくてはならないのです。


(続きます)

根本仏教講義『希望と欲望⑥-2』
スマナサーラ長老

2019/01/17

希望と欲望⑥-1


最上の希望は「悟り」

    


寝ずに精進したチャックパーラ長老Ven. Cakkhupala Thero



むかし、年配のお坊様が出家しました。このお坊様は、

「私は年をとっている。私には時間がない。だから寝るのがもったいない。雨安居の3か月間は絶対、横になりません」

と決意し、歩く瞑想や立つ瞑想、坐る瞑想に励んで、全然横になって寝ようとしなかったのです。

2日や3日なら大丈夫でしょうが、身体はだんだんもたなくなってきます。一般の人なら「ちょっとやり過ぎ」と思うでしょう。

ところがお釈迦様は「やめなさい」と修行を止めることはしなかったのです。


1か月ほどたつと、お坊様は病気になりました。目が痛くなり、充血して真っ赤になったのです。ある日、お医者さんが来て、即効性のある一番いい薬をお坊様にあげました。

でも、このお坊様はあまりにも必死に修行しているものですから、薬を目に入れるとき、横にならずに座ったまま入れるのです。

当然、薬は目の奥まで入りません。それで病気はなかなか治らなかったのです。


ある日、お医者さんがお坊様の目の具合を見に来ると、症状は前と全然変わっていません。そこで、また薬をあげました。でも、治りません。あげても、あげても、いっこうに治りません。お医者さんは考えました。

「私は目の病気に一番よく効く薬をあげているのに、どうしてこのお坊様には効かないのか」

そこでお坊様に、「薬をどのように入れていますか?」と聞くと、「座って入れています」と言うのです。

お医者さんは、「それでは薬が効くはずがありません。横になって入れてください」と言いました。

しかし、お坊様は横になりません。

お医者さんは、もうやりきれないとばかりに、

「これ以上の薬は他にないですよ。なのにお坊様は薬を正しく使用しません。これでは病気は治るはずがありません。ですから私は治療をやめます」

と言って帰ってしまったのです。


このときお坊様が何を考えたかというと、さらに自分を戒めたのです。

「自分は医者から見放された。もう誰も自分の面倒をみてくれない。だから解脱することにもっと精進しよう」

そう考えて、次の月も頑張ったのです。


頑張った結果、雨安居の3か月間が終わると、悟りを開いたのです。

しかし、悟ったと同時に両目の視力を失いました。失明したのです。

このことを知ったお釈迦様は、チャックパーラ長老のことを愚か者だとか、やり過ぎだなどと否定しませんでした。それどころか、

「すばらしい。とにかく頑張って精進して最高の目的に達しました」

と称賛したのです。そして、チャックパーラ長老を悟りを開いた聖者として、モデルにすべき大弟子の一人として認めました。


このお話はダンマパダの第1番目、第1章の第1偈に出てくる物語です。ですから、仏教はどれぐらい精進を奨励しているかということがわかると思います。


(続きます)

根本仏教講義『希望と欲望⑤-2』