2010/05/11

パパンチャのからくり(刺激論5)

瞬間的に考える働き(Vitakka)


知る(sanjâna)という働きの後には、ヴィタッカ(Vitakka)が生まれます。

ヴィタッカは漢訳で「尋」、意味は「考える」です。

じっくり考えるのではなく、瞬間的に考えることです。

閉じていた眼をパッと開けると、眼に色形が入ります。

もし目の前に花があるなら、その瞬間に「花」と分かるでしょう。

これがヴィタッカです。

瞬間的なことですので皆さんは、考えてないと思われるかもしれませんが、真理の立場から見ると、これは考えていることになるのです。

この微妙な働きを仏教では「考える」というのです。

「花」と認識した瞬間、もう考えたのです。

頭の中ではいろいろなデータが集められ、花と、花ではない無数のものとを比較し、区別して「これは花だ」とほんの一瞬のうちに処理したのです。

考えなければ「花」という結論には至れません。

この瞬間的に考えることをヴィタッカと言います。


妄想を作る働き(papañca)


ヴィタッカの次に、とんでもないことが始まります。

「パパンチャ・papañca」ということ。

ヴィタッカは「花」とか「人」とか「建物」などと瞬間的に考えることですが、その後に、欲や怒り、憎しみ、悲しみ、後悔、嫉妬などのさまざまな感情が湧き起こってきて、頭の中でごちゃごちゃ考え始めるのです。

これをパーリ語で「パパンチャ」と言います。

パパンチャは訳しにくい言葉ですが、「現象」とか「妄想」という言葉が一番適切で、理解しやすいでしょう。実際には無いものを有ると考えて、実体化、固定化することです。


たとえば4人で友人の家に行ったとしましょう。

部屋に入ると新しいカーテンが掛かっているのが見えました。

見えた瞬間、4人とも「カーテンだ」と分かります。これはヴィタッカの働きです。

次の瞬間、それぞれの人の心に何らかの感情が湧き起こり、知識というへんなものが生まれてくるのです。

たとえばAさんはカーテンを見て「明るくてきれい」と言うし、Bさんは「色は好きだけど模様がへん」と言います。Cさんは「色が派手すぎる」、Dさんは「色も模様も好きだけど生地が薄い」などと、みんな別々のことを言うのです。

ですから、同じ一つのものを見ても「何を考えるか」は人によって違うのです。

みんな、自分の頭の中で合成して現象化したものを喋っているのであって、事実を喋っているわけではありません。

このようにして、外のものが眼に触れた瞬間、心の中に「妄想」という複雑で巨大なエネルギーが現れてくるのです。


なぜ腹が立つのか?


そこで妄想するときは、欲か怒りか無知という感情が付いてきます。

そして感情でごちゃごちゃ妄想したことを「私の知識」と思い込み、さらに「私の知識は正しい」と誤解するのです。

そして「自分はこんなことを知っている」と、堂々と皆に喋るのです。

しかし何を喋っても、それはその人が作り上げたパパンチャの世界にすぎません。

人間社会におけるコミュニケーションや生き方のすべてが、この「パパンチャのからくり」で出来ているのです。

だからです、私たちがお互いに別々の世界に生きているのは。

みんな自分のことしか知らないし、他人のことは知りません。

なぜ私たちは喧嘩するのでしょうか?

自分が考えていることと相手が考えていることが違うからです。

「このカーテンの模様はへん」と言われたら、その部屋に住んでいる人は気持ち悪くなるのです。

その人が気に入ったから買ったカーテンでしょう。

友人に「へん」と言われたら、どことなく貶されたような感じがして、機嫌が悪くなるのです。

あるいは、インテリアデザイナーが部屋に来て「このカーテン、ちょっと地味ですね」などと言われると、相手はプロですから、「自分には美的感覚がないんだ」と妄想して自信を失くしたり落ち込んだりするのです。

しかし人が何を言おうとも、それらはすべて各人の妄想にすぎません。

でも私たちは、妄想は現実で固定的で、実在するものだと思い込み、そのために大変な苦しみを味わっているのです。

私たちは何の疑いもなく「自分は世の中のことを見ている、知っている」と思っています。

しかし、ありのままの事実は見ていません。

感覚器官に触れた情報について妄想したものを知っているにすぎないのです。

ヴィタッカと妄想は別のものです。

ヴィタッカは瞬間的に考える働きで、瞬時に頭の中でさまざまなデータを集め、区別し、判断することです。これはそれほど問題を起こしません。

しかし次の瞬間「この花はきれい」とか「汚い」とか「私の意見は正しい」「あなたの考えは間違っている」などと、巨大な妄想の世界がドーンと現れてくるのです。

妄想するときは必ず自分の好き嫌いが絡んできます。花はきれいと思ったら「好き」という欲が、汚いと思ったら「嫌い」という怒りが入っています。私たちは欲と怒りと無知で妄想の世界を作り上げているのです。

人間だけでなく、すべての生命が妄想の中で生きているのです。


大切なのは実験すること


これまで「認識システム」について軽く説明してきましたが、ここは大変重要なポイントです。

ですから、ご紹介したいくつかのキーワードを覚えておいて、日常生活の中でよく実験していただきたいのです。実験することが大切です。

たとえば猫を飼っているなら、猫がいる前で眼を閉じて、パッと開けてみてください。

その瞬間「猫だ」とお分かりになるでしょう。

次に、どんな感情が湧き上がってきますか?

猫が大好きで我が子のようにかわいがっている人なら「かわいくてたまらない」と思うでしょう。これが妄想なのです。

そしてこのとき同時に「自分の考えは絶対に正しい ―― 猫がかわいいということは真実である」と固く決め付けているのです。

そこへ、猫嫌いの人が家に遊びに来たとしましょう。その人は猫を見たとたん「嫌だ、気持ち悪い」と言いました。

そうすると、猫好きの人はすごく気分が悪くなるのです。なんて失礼な人だ、と。できれば二度と家に来てほしくないという気持ち。

そこで、なぜ腹が立ったのでしょうか?

それは、自分がかわいがっている猫を、相手も同じようにかわいいと言ってくれなかったからです。

いろいろ実験してみてください。妄想が生まれる過程を、あらゆる場面で観察してみてください。

会社に苦手な上司や嫌いな同僚がいるなら、その人を見た瞬間どんな感情が込み上がってくるでしょうか?

たいがいは「嫌だ」と妄想するでしょう。

でも、ほかの人がその人を見たとき、自分と同じ嫌な気持ちになるかというと、そうではありません。なんのことなく親しく話しているのです。

ですから「嫌だ」と思うのは、自分個人の主観であり妄想であって、事実ではないのです。

どんな親でも、自分の子供は世界一かわいいと思っているものです。でも、近所の子供に対しては、悪ガキと思ったりします。

なぜ自分の子供が世界一かわいくて、近所の子を悪ガキだと思うのでしょうか?

そこが妄想の世界なのです。真実の世界ではありません。

このように、私たちは頭の中で好き勝手にいろんなことを考えて固定概念を作り上げ、それを真実だと錯覚して生きているのです。


ニッパパンチャの世界


そこで、お釈迦さまは「目覚めなさい、現象を見るのではなく、ありのままを観なさい」と諭されて、パパンチャを破る「ニッパパンチャ・nippapañca」の世界を教えられました。

ニッパパンチャの世界とは、一切の妄想概念から解放された自由の境地、いわゆる涅槃のことです。

妄想概念を破ることは、簡単なことではありません。

しっかり心を育てなければならないのです。

たとえば耳に音が触れたとき、どんな音が触れようとも、「聞こえた」と、そこでストップするのです。

「あ、上司の声だ → 嫌だ → また何か文句を言われるのか → うるさいなあ → ほんとうに頭にくる……」

というふうに勝手に頭の中で妄想を回転させないことです。

ただ「聞こえた」、あるいは「音」という事実のところでストップするのです。

それだけです。

しかし、ちょっと気がゆるむと、すぐに妄想が回転し始めて「嫌だ」とか「うるさい」などという怒りが湧き起こってきますから、常に気をつけるよう、心を育てなければなりません。

(続きます)


A. スマナサーラ長老 法話
文責:出村佳子

『刺激論』目次


刺激論:スマナサーラ長老法話



2010/04/26

心を直視する(ストレス完治への道 2)


ストレスと老化


ストレスの多い人は早く老化する傾向があります。とくに内臓が早く老化します。表面的に老けるのはどうということはありませんが、内臓の老化は無視しないほうがいいでしょう。たとえば実際の年齢が四十歳なのに、医者に「あなたの肝臓の年齢は六十歳です」と言われたら、気をつけたほうがいいのです。最近では、このようにして身体の部分を年齢で言い表すことがあります。心臓の年齢、血管の年齢、脳の年齢、骨の年齢、肌の年齢などと。これ、おもしろいと思います。実際の年齢が四十歳なのに肝臓の年齢が六十歳ということは、肝臓がかなり老化しているということです。いったん老化したら、残念ながら元に若返ることはありません。生きるということは、別の言葉で言えば、老化するということですから、私たちは老化の流れを逆戻りさせたり、停止させることはできないのです。でも、その進行スピードをゆるやかにしてノーマルスピードに戻すことは、ある程度できます。心と身体をよく管理して、気をつけて生活すればよいのです。そうすれば七十歳や八十歳になったとき、内臓もだいたいその年齢にいるでしょう。

ストレスは行為の結果


ストレスは、行為の結果生じている現象です。自分が何か悪いことをやっているのです。商売をするのは悪いことではありませんが、怒りと欲でやっているからストレスが溜まるのです。子育ては別に善いことでも悪いことでもなく単なる自然の行為なのですが、これを強烈な愛欲と執着でやっているから全部罪になってしまうのです。悪い行為には必ず悪い結果があります。この悪い結果がストレスなのです。それでじわじわと高血圧や胃潰瘍、うつ病、自律神経失調症などの病気になり、ひどいときには腎臓の機能が停止したり、癌に侵されることもあります。内蔵が異常を起こして、どうにもならなくなるのです。

貪りや怒り、無知で行動すれば悪いエネルギーが溜まりますが、反対に、貪らず怒らず智慧をもって生活すれば、善い行為の結果として善いエネルギーが溜まります。身体が健康になり、顔色も明るくなり、行動は素早く、やるべきことをテキパキやれるようになるのです。活発で素早いのですが、老けるスピードはゆっくり。実際の年齢よりもだいたいは若く見えるものです。でも、多くの人はこれとは逆で、仕事は遅いし失敗ばかり。何度もやり直しをしなければなりませんから時間がどんどんなくなります。なのに、老けるスピードだけは速い。これは貪りと怒りと無知の衝動で行動しているからなのです。

大昔、人間の寿命がすごく長い時期があったという話が経典にあります。青年期が四万八千年、中年期が四万八千年、老年期が四万八千年の寿命だったと。パーリ語で「四万八千」いう数字は大変響きのよい数字でして、おそらくこれはそれぞれの時期をぴったり四万八千年間生きたという意味ではなく「かなり長く生きていた」という意味ではないかと私は思います。でも、百年の寿命を四万八千年までたちまち延ばせることはないでしょうが。そこでなぜこんなに寿命が長かったのかといいますと、その当時の人たちは怒ったり、欲張ったり、嫉妬したり、怨んだり、後悔したり、嘘をついたり、不倫したりすることがなく、自然の流れのまま、明るく穏やかに生きていたらしいのです。夫婦間で子供をつくるときも強烈な欲情や執着はなく、ただ「子孫を残さなければならないから」という感じで。このように、何のストレスもなく穏やかな心で生活していたから寿命がものすごく長かったらしいのです。

頭の中にインプットされているもの


一般的に私たちは貪りと怒りと無知(貪瞋痴)の行為しか知りません。貪らず怒らず智慧のある行為(不貪・不瞋・不痴)は知るよしもありません。ですから皆さんに「欲は苦しみのもとです。捨てたほうがいいですよ」と説法すると、だいたいの人は「欲のない人生なんてつまらない」と、ちょっと嫌な顔をするのです。また「人の役に立つことをしなさい、困っている人を助けてあげてください」ということを話すときも、結構苦労します。多くの人は、ボランティアをしたり他人の役に立つ行為をすることは、ある特定の人がやる特別の行為だと思っているものですから、このようなことを話しても、すんなり理解していただけないのです。電車の中でお年寄りの方に席を譲るときでさえ「本当に譲らなければいけないでしょうか」と考えて考えて考えて、大変なことをするというぐらい悩むのだから。では、なぜそこまで悩むのかというと、私たちの頭の中には「善いことをする」というプログラムがインプットされていないからです。心の中では不貪・不瞋・不痴という考え方が存在しないのです。分かりやすく言いますと、たとえば道端に変わった形の小石が落ちていると、好奇心旺盛の子供たちは足を止めて、おもしろがって、それをじっと観察します。大人はこうはいきません。そんなものには目もくれず、小石があることすら気がつかないで通り過ぎていくでしょう。でもそこに百円玉が落ちていると、すぐに足を止めて拾うのです。これは、大人にはお金に対する欲望がインプットされていますから、お金を見ると自動的に反応するのですが、一円の価値もない小石のインプットはありませんから、まったく無反応になるのです。このように、私たちは貪瞋痴に対しては自動的に反応しますが、不貪・不瞋・不痴の考え方は無いために、善い行為をするとき大変苦労するのです。

どうやって能率を上げるか?


世の中では、従業員の能率が高まり、営業成績が上がって会社が儲かるなら、「貪瞋痴はよいもの」と考えています。以前テレビで見たのですが、ある会社で従業員のやる気を引き出すための対策として、いちばん営業成績の悪い従業員に、会社の従業員全員のボーナスを袋に入れるという仕事をやらせていました。Aさんには二十万円、Bさんには三十万円、Cさんには五十万円というふうに。それで自分の名前の袋はたった五万円だけ。なぜこのようなことをやらせるのかというと、成績の悪い従業員にわざと悔しい思いをさせて、やる気を引き出すためだというのです。確かにこのようなやり方をすれば、できの悪い従業員は刺激されて、頑張って仕事をするようになるかもしれません。でも、その頑張りはどこから来ているのでしょうか? 怒りと悔しさからです。「部下が五十万円も貰ったのに、なんで自分は五万円しか貰えないのか」と。このように、従業員の怒りや悔しさを煽って、やる気を起こさせるのは大変危険です。経営者と従業員の双方に過剰なストレスがかかり、会社がうまく機能しなくなるのです。

逆に、従業員の中には「自分はダメだ、自分は会社で必要とされていない」と考えて、意欲を失い、落ち込んで、仕事が手につかなくなる人もいるでしょう。従業員が仕事の意欲を失えば、それは会社にとって大きな損失です。そのようなとき、経営者は態度を一変させてこう言うのです。「悔しがらずに頑張りなさい。怒りは悪いものだ。怒りを捨てて仕事に集中しなさい」と。怒りや悔しさを煽ったのは自分なのに、もしそれがうまくいかず、従業員のやる気が向上しなければ、今度は正反対のことを言うのです。これが世の中のやり方です。貪瞋痴によって仕事の能率が上がるなら「貪瞋痴はよいもの」とし、能率が下がるなら「貪瞋痴は悪いもの」とするのです。会社の都合で、あるときはよいものに、あるときは悪いものになるのです。仕事を頑張るなら欲と怒りと無知は味方になり、仕事をしないなら敵になるのです。

火に油を注ぐ危険


世間では「ストレスのあるところに、さらにストレスを加える」という恐ろしいやり方をとっています。これは火に油を注ぐようなもので、事態をいっそう複雑にするのです。以前、ある方から「会社に行けなくなった、どうすればいいでしょうか」と相談を受けたことがあります。話を聞いてみると、その人は大変な怒りを抱えていて、上司が嫌だ、同僚が嫌だ、嫌な仕事が山積みになっている……と不平不満を並び立てるのです。私はその人に何のアドバイスもできませんでした。なぜならその人は私に「別の怒りを作ってほしい」と考えていたことが分かったからです。つまり「あなたは悪くありませんよ、嫌な人間関係に負けないで頑張りなさい」というふうに。この類のアドバイスは世の中の心理カウンセラーたちが一時的な対処法としてやっていることであって、仏教では、怒りを正当化して人のやる気を起こさせるようなことはやりません。仏教は「完治する方法」を教えています。ストレスを完治させるためには、心を客観的に観察しなければなりません。ですから、彼にアドバイスできることは「心を客観的に観てください。怒っているのはあなたではないですか。悪いのは、いかなる場合でも怒った人です」ということ。でも残念ながら誰も「自分が悪い」ということは認めたがらないのです。
(続きます)

A. スマナサーラ長老 
ストレス完治への道② 
心を直視する
文責:出村佳子