2012/09/04

仏教の会計学 4



前回は、仏教とは人生を勘定する学問、つまり「人生の会計学」であり、これを学ぶことによって私たちは財政的にも精神的にも豊かに生きることができる、というところまでお話し致しました。今回から具体的にその内容を学んでみましょう。概要は次のとおりです。

一.何を勘定するか
二.勘定の仕方
三.正しい見積書と誤算
四.損を避ける方法
五.倒産しないための秘訣

一.何を勘定するか
勘定するといっても私たちは何を勘定すればよいのでしょうか。大きく分けると四つあります。

・物(金銭、財産、物品など) 

まず、物です。これは皆さん日常生活の中で普通にやっていることでしょう。たとえば電化製品を買うなら「A店よりB店の方が安くてサービスがいいからB店で買おう」とか、海外旅行に行くなら「正月は旅費が高いからオフシーズンに行こう」というように、物やお金の損得を勘定することです。これはやらなければ損をします。

・知識・情報 

次に知識と情報です。間違った情報や不必要な知識を入れると、人は堕落します。現代社会では、テレビ、新聞、ラジオ、インターネットなどを通して、誰でも簡単に情報を入手することが可能になりました。しかしその膨大な情報を、何の勘定もせずにそのまま鵜呑みにするのは大変危険なことです。マスコミはありのままの事実を客観的に報道するのではなく、政治的、経済的意図に影響されて、極端に歪曲したデータを流したり、一部の情報をカットすることもあるからです。だからといってマスコミだけが悪いわけではありません。情報を受ける私たちも悪いのです。つまり外から入ってきた情報を無批判で受け入れるという、無知で怠慢な私たちの態度にも問題があるということです。

そこでお釈迦さまは「各自が、入ってくる情報を正しく勘定しなさい」と教えられました。自分の目や耳に入ってくる情報は「正しいものか、正しくないものか」「真面目に考慮すべきものか、無視すべきものか」を見分けなさいと。自分にとって有害な情報は受け入れないようにし、有益な情報なら取り入れて、よく学ぶことが大切なのです。


知識についても、何でも知ればいいというわけではありません。知ってはいけない知識もあります。仏教では、毒や武器を製造したり商売にする知識は断固として禁止しています。なぜなら、この種の知識は人の精神をおかしくさせ、他人も自分も害することになりますから。

・人間関係 

次に、人間関係です。仏教では人間関係について厳しく言っています。人とつきあうとき、相手は誰でもいいというわけではありません。相手が道徳を守らない愚か者だったら、その人とは距離を置いてつきあうか、離れた方がいいでしょう。なぜなら愚か者と親しくすると、簡単に自分も堕落してしまうからです。他方、智慧があって道徳的な人とは、しっかり仲良くすべきです。

世の中には「私は人づきあいが広い」とか「友だちが大勢いる」と自慢している人がいますが、重要なのはつきあう人の数の多さではなく、相手がどのような人かということです。道徳的で立派な人がいるなら、つきあう人はその人一人で十分なのです。

・人格の向上・進化に必要な道徳と真理

最後は、人格の向上・進化です。私たちは日々の生活の中で「善い人間になる」ように常に心を向上させ、進化させなくてはなりません。そのためには「これをやると進化する」「これをやると退化する」というように、自分の行動を勘定しなければならないのです。その基本となるものが道徳です。道徳を守ると人格はどんどん向上しますし、守らなければ堕落していきます。

それから、真理を知ると人は進化して悟れるのです。最終的に私たちは、悟りを得るところまで勘定しなくてはならないのです。

勘定の仕方

さて、何を勘定すればいいかということはこれでおわかりになったと思います。それから、もう一つ考えておかなければならないポイントがあります。皆さんはこの四つの項目の中で何を優先して生活していますか? お金ですか? 人づきあいですか? 情報・知識ですか? 道徳・真理ですか? どれも生きる上では必要なものですが、何を優先すべきか、何を優先すれば幸福になれるか、という優先順を知っておくことも大切です。
それでは先ず、私たちが普段からやっている俗世間の優先順を見てみましょう。

・「俗世間」の優先順
1、物
2、人間関係
3、知識・情報
4、人格の向上・進化(道徳と真理)


私たちが一番重要視しているものは、物です。その中でも特に、食べることと飲むことを大事にしています。飲食をしなければ生命を維持することができませんから、これは当然のことでしょう。次は、家族や友人、会社などでの人間関係です。そしてその次に、仕事をするためや教養を身につけるために、知識や情報を必要とします。そして最後に来るのが、道徳・真理です。私たちは実際のところ、道徳や真理を大事にしていません。嘘をついたり、帳簿をごまかしたり、不正を働いてまでも、より多くの金銭や地位、権力などを獲得しようとしているのです。欲望にあやつられて、道徳は後回しにするか、あるいはまったく無関心の状態で生きています。これでは幸福になれるはずがありません。では、仏教はどのような優先順をつけているのでしょうか。

・「仏教」の優先順

1、人格の向上・進化(道徳と真理)
2、人間関係
3、知識・情報
4、物

私たちが幸福になるために最優先すべきものは、人格の向上と進化です。皆さんはお金や物の勘定には慣れているでしょうが、それよりも大事なのは、人格者になるために、善い立派な人間になるために、道徳や真理を勘定することなのです。その次に、人間関係です。悪いグループに入らないで、善いグループに入るように気をつけなければなりません。それから知識です。知識があるのは善いことですが、それほど高度な知識がなくても生きていられるでしょう。そして最後に、お金、家、車、装飾品などの物です。

仏教では、このような優先順をつけています。もし幸福を望むなら、道徳や真理を最優先にする、この仏教的な順番を学ぶべきでしょう。

得ること・与えること


次に、「勘定の仕方」について勉強してみましょう。これは次の五つのタイプに分けられます。


1、得たから与える
2、得るために与える
3、得られるなら与える
4、要らないから与える
5、与える

一番目の「得たから与える」というのは、人に何か貰ったからお返しします、という世間任せ的な生き方です。これは周りの人がいつでも自分のことを心配して、必要なものを与えてくれなければなりませんから、そういう人がいない社会では生活できないということになります。
二番目の「得るために与える」というのは狡賢いでしょうし、三番目の「得られるなら与える」は態度が大きい。四番目の「要らないから与える」は、世界をゴミ箱のように思っているのです。
そして五番目の「与える」だけというのは、賢者の世界です。賢者には「得たい」という気持ちがありません。「与える」ことしか考えていないのです。

そこで、はじめの四つはどれも「自分が何かを貰いたい」という気持ちが先立っていることがおわかりになると思います。しかし「貰いたい」という目的だけで生きていると、数限りない苦しみが生まれ、不幸を招くことになります。ですからこれらの四つは良い方法だとは言えません。それから五番目の「与える」だけの生き方を、いきなりやりなさいと言われても、私たちはギブ・アンド・テイクの世界で生きているのですから、それは無理な話です。では仏教はどのような方法を薦めているのでしょうか。

与えてから得る


二番目の「得るために与える」を与えてから得るというやり方に改良するのです。つまり、人や社会から何か「得よう、貰おう」とするのではなく、先に自分から「与える」のです。これが間違いのない正しい方法なのです。
(続きます)
アルボムッレ・スマナサーラ長老法話
文:出村佳子

損得勘定の智慧 スマナサーラ長老法話 文責 出村佳子


2012/09/03

人生の会計士 3

人生はモノの流れの交差点「損得勘定の智慧 2」の続き


愚者は垂れ流しの生き方をする

「愚者」は損得を勘定することも、自分の感情をコントロールすることもできません。


結果として、いつでも損をする羽目になります。前回お話ししました物々交換の例で、着物を持っているAさんは、Bさんの大根が欲しいのですが、着物と大根をそのまま交換するのではAさんがちょっと損をするでしょう。そこで少し頭を働かせて工夫するのです。たとえば隣にいるCさんがリンゴと草履を持っているとします。AさんはCさんに交渉して、CさんのリンゴとBさんの大根を交換してもらうのです。リンゴと大根の価値はほぼ等しいですから、BさんもCさんも納得して物々交換が成立するでしょう。そしてその後、Aさんは自分の着物と、Cさんの大根・草履を交換するのです。これでAさんは損をしないですみます。このようにちょっと頭を働かせて、損の無いように生活することは決して悪いことではありません。でも、勘定をないがしろにする愚か者には、このような工夫ができないのです。


それから、生きる上では新しいこと(ただし善いこと)に挑戦する勇気も欠かせないものです。ですが愚か者は「失敗するのが怖い」とか「面倒臭いからやりたくない」といってチャレンジするのを億劫がります。しかしそれではいっこうに「得」することができません。なぜなら新しいことに挑戦することによって、私たちの心は徐々に進歩してゆき、何らかの「得」が得られるのですから。

また「損するか、得するか」とはっきり分からない場合もあるでしょう。そんなとき、わずかにでも善いことがあると分かったら、たとえ今までやったことがないにしても、思い切って「挑戦してみる」ことが大事なのです。

ときどき「私は損得なんか気にしない。気の向くまま、風の吹くままに生きて行く」と言う人がいます。このような放浪的な人のことを「格好いい」とか「立派だ」と称賛する人も少なくありません。本人もきっとそう思っているでしょう。しかしこれは大変な無知の生き方であり、正真正銘の愚か者の生き方なのです。すべてを運命に任せている愚か者は、自分で努力しようとしませんから、何の進歩も得られずに堕落するばかりです。

そうではなく「これをすれば得をする、これをすれば損をする、これは善いことだからやる、これは悪いことだからやらない」とはっきり計算して生きるべきなのです。

賢者は損得を乗り越える


「賢者」とは悟った人のことです。賢者は損得に対してどのようなアプローチをしているのでしょうか。


完全に悟りを開いた賢者は損得には囚われません。だからといって愚かな生き方もしません。損をしても得をしても「自分は単なる交差点だ」と法則を正しく理解して、落ち着いているのです。


何が入っても何が出て行っても――宝石が出入りしても、牛馬の肥料が出入りしても、「私とはモノが出入りする交差点」と考えて冷静にいるのです。

このように賢者は、損をしてもそれに悩みませんし、得をしてもそれに惑わされません。一
切のものに執着しないで清らかな心で生き、完全なる自由を得ています。
損得は必ず勘定しなくてはならないものですが、それに引っ掛かって舞い上がったり落ち込んだりすると、心の自由が消えてしまうのです。
何にも囚われることのない賢者だけが、損得を乗り越えて、自由な心で、勝利者として生きることができるのです。

正しい価値判断能力を養う


賢者の生き方はひとまず脇に置いておきましょう。


いきなり損得を乗り越えた賢者の生き方に飛ぶのではなく、先ず、損得を正しく勘定する「知者の生き方」を学んだ方が皆様の役に立つと思います。知者の生き方については前回お話し致しましたが、ここでもう少しポイントを付け加えておきましょう。


家庭の主婦が家計簿を付けて金銭を管理しているように、私たちは誰でも「人生の家計簿」を付ける必要があります。金銭だけでなく、知識、情報、道徳、人間関係を含めた人生全体の家計簿を付けなければなりません。しかし私たちはお金や物を勘定することに関しては慣れていますが、それ以外のものについてはほとんど勘定していません。この、勘定をせずに無知でいることから、さまざまな問題が発生しているのです。

たとえば知識について考えてみましょう。一般的に、知識は良いものとみなされています。しかし知識には私たちの役に立つものと有害なものとがあるのです。役に立つ知識とは、仕事をするために必要な知識とか仏教の知識などです。これらは私たちが生きる上で大変役に立つものですから、たとえ勉強が嫌いでも頑張って学んだ方が良いでしょう。他方、有害な知識とは、武器や爆弾を製造するなど生命に害を与える知識です。これは決して学んではなりません。学ぶぐらいならいいのではないかと思われるかもしれませんが、知識を入れるだけでも危険なのです。なぜなら、何かを知ればそれを作りたくなり、作って完成したら実際に使用してみたくなるからです。これが人間の心というものです。ですから大切なことは、どの知識を得るべきか、あるいは避けるべきか、何が役に立ち、何が役に立たないか、を勘定する智慧を身に付けることです。あらゆるものに対して損得を勘定する訓練をして、価値判断能力を養うことが、幸福に生きるために欠かせないことなのです。

そしてそれには「注意力」が必要です。たとえば子供がいたずらをすると、母親はたいてい「そんなことをしたらダメでしょう!」といきなり大声で怒鳴るでしょう。それで子供はいたずらをやめるでしょうか? 

そのときは驚いて一時的にやめるかもしれません。でもすぐに次のいたずらが始まるのです。
そして、また母親が怒鳴る――。
結局、子供の行動に振り回されて怒鳴っている母親の方が疲れてしまうのです。

そこで、子供を叱る前にちょっと立ち止まって、「どう言えば子供はいたずらをやめるだろうか」と考えてみるのです。ただ感情的に言いたい放題のことを言うのではなく「この言葉は子供にとってプラスになるか、マイナスになるか」と考えてみます。そしてプラスになることだけを言うのです。このような注意力があれば、損をして苦しむことはないでしょう。

ところで、どこのスーパーに行っても一つや二つ「安売り」などと表示された札を見かけるものです。その札を見たとたん「安い、得だ」と勘違いして、いきなり飛びついて買ってしまう人がいます。たとえば「十個まとめて買うと二〇%引き」とあるとします。確かに単品を通常の値段で買うよりも得するでしょう。しかし問題は、その品物が十個も自分に必要かということです。もしそれが食べものなら消費期限があるはずです。せっかく「安い」と思って買ったのに、結局、近所の奥さんたちに配る羽目になります。人に分けてあげるのは悪いことではありませんが、特売で安く買ったものを消費期限が切れるからといって捨てるようにあげても仕方ないでしょう。受ける側も感謝して受け取ることはないのです。ですから、総合的に見ると大変な損をしていることになるのです。

もし人に何かあげたければ、価値のあるものを買って「これを差し上げます」と大事にあげた方がいいのです。そうすれば相手も「私のことをよく思ってくれている」と気持ちよく受け取ってくれますから。

何も考えずに感情でパーっと行動しても何の得もありません。このような理由で、私たちは「注意深く生きる」ということが大切なのです。

人生の会計士 


私たちは自分の人生の会計士にならなくてはなりません。
社会には「会計士」と呼ばれる職業があります。会社の金銭や物品の出入りを監督して検査する人のことです。残念ながら、このように個人の人生を検査・監督してくれるような会社はありません。ですから自分の人生は自分で管理しなければならないのです。「あなたの代わりに私が生きてあげます」とか「あなたの代わりに私が勉強してあげます」というのは絶対に成り立ちません。自分の人生を他人に任せることはできないのです。自分が智慧を身に付けて、自分で自分の人生を管理する以外に方法はないのです。


そして、仏教とは自分の人生を勘定する学問、つまり「人生の会計学」です。これを学ぶことによって、私たちは財政的にも精神的にも倒産することなく、豊かな人生を生きることができるのです。
(続きます)
アルボムッレ・スマナサーラ長老法話
文:出村佳子