2012/09/07

最高の徳は解脱 7

幸福の見積書「損得勘定の智慧6」の続き


損を避ける方法

損をしない人生を送るためには、与えることをモットーにすることです。社会に対し、自分は何ができるだろうかと考えて、役に立つように生きるのです。そういう人は当然、社会に必要な人間になるでしょう。必要な人間なら、社会はその人を放っておきません。あなたがいなかったら困ります、と言って生かしてくれるのです。つまり自然に生かされるのです。そうなれば、もう他人と競争する必要もなくなりますし、敵もいなくなりますから、生きることはとても楽になります。ですから自己中心的な欲望を捨てて、皆が幸せでありますようにという慈しみの心を育ててください。慈しみがあれば、絶対に損をして苦しむことはありません。得だけの、徳に満ちた幸福な生き方ができるのです。

倒産しない秘訣

お金が欲しい、物が欲しい、地位が欲しい、名誉が欲しいなど、私たちはたいてい何かを求めながら、社会のなかで生きています。しかし人が何かを欲しいと思うとき、それはほとんど自己中心的であり、周りのことは考えていないものです。言い換えるなら、欲しいとばかり思っている人は、周りを軽蔑して侵害しているのです。何かを貰うときは誰から貰うのですか? 相手からでしょう。なのに、その相手を軽蔑していれば貰えるはずがありません。相手つまり社会は、次第にその人を疎んじるようになり、ついには捨ててしまうのです。捨てられたらもう何も貰えません。これで倒産するのです。
そこで倒産する前に、いまの生き方を転換しなければなりません。他人から貰おう、取ろうとするのをやめて、自分が持っているものを皆と分かち合おうという優しい心で生活するのです。そうすれば人生は絶対に倒産しません。これが倒産しない秘訣なのです。
最後に、忘れてはならない重要なポイントをお話いたしましょう。慈しみの心で、幸福に生きることだけが、私たちの最終目標ではありません。輪廻のなかで生存している限り、完全な幸福は得られないのです。生きている間中ずっと「しっかりしなくては」と気を張っていなければなりません。少しでも怠けたり、不注意になれば、足元の土台がガタガタと崩れて、幸福が壊れてしまうのです。これは大変危険なことです。
そこで私たちの最終目標を「心を清らかにして悟りを得ること」と設定しなければなりません。解脱こそが、最高の得であり、究極の幸福なのです。

終わりに

~在家者が豊かに生きるために~

●破滅行為とは?

仏教では、財産を失い、自己破滅につながる行為として、次の六つの項目を挙げています。

①酒や麻薬に溺れること。
酒を飲むと、人は酔っ払って自分の行動や言葉を管理できなくなります。
病気の原因にもなりますし、お金も浪費します。

②夜遅くまで町を遊び回ること。

③踊りや歌、祭りやパーティなどの集会に 熱中すること。

④賭け事をすること。
勝てば相手に怨まれますし、負ければ悔しくなります。

⑤道徳を守らない人や悪影響を与える人たち とつきあうこと。

⑥怠惰に耽ること。
世の中にはこのような破壊行為があることを理解して、損を免れたい人は、これらを避けるべきでしょう。

●財を管理する

在家者は、財の収入と支出によく気をつけて、それを管理するだけでなく、収入の一部を貯金することも、仏教は薦めています。人生では何が起こるかわかりません。事故でけがをしたり、病気で入院したり、災害に遭うかもしれません。このようなことが起こったときのために、あらかじめお金を貯めておくのです。万一、家族や自分に何か起きたときには、貯金をパッと使って借金しないようにするのです。仏教は借金には反対です。借金をしなくても、あるもので満足すればいいと考えているのです。また、貯金をするといっても、お金に執着して、やたらに貯めこむのはよくありません。あくまでも非常時の備えのために、収入の一部だけを貯金するのです。

●見返りを期待しない

「与えるだけ」という最高の徳があります。これは、見返りを求めずに、困っている人や苦しんでいる人を助けることです。たとえば難民キャンプに行って、そこで苦しんでいる人たちに、飲みものや食べもの、医療など、必要なものを施すことがあります。しかし、そこの人たちは何もお返しはくれません。それを承知の上で、なんの見返りも求めずに奉仕することは、素晴らしい模範的な行為です。

しかし私たちはたいてい、このような善い行為をあまりやりたがりません。電車のなかでお年寄りに席を譲るぐらいの些細な行為でも、恥ずかしがったり、躊躇したり、あるいは寝たふりをして無視したり――。ところが昨年、新潟県中越地震が起きたときには、大勢の人たちが「なんとかしなければ」と立ちあがり、義捐金を送ったり、現地でボランティア活動をしたりなど、それぞれが自分にできる形で援助をしました。忘れかけていた「助け合う心」や「思いやりの心」を取り戻したのでしょう。この心が、与えるだけの素晴らしい行為なのです。

しかし、寄付をしたり奉仕活動をする人のなかには「俺がやってあげたんだ」とか「自分は偉い」などと威張ったり高慢になる人が、案外いるものです。それでは心が汚れます。そこで仏教では、行為よりも心を清らかにすることを優先するように、と教えているのです。災害に遭って苦しんでいる人がいたら、正直に、真面目に、純粋な気持ちで「この人たちの苦しみがなくなりますように」「早く町が復旧しますように」と念じて、自分の心を清らかにするのです。病気で苦しんでいる人を見たら「病気が治りますように」「痛みが和らぎますように」などと念じるのです。繰り返し念じることによって、心が少しずつ清らかになってゆきます。自分のことしか考えなかった自己中心的な心が、相手を思いやる優しい心に成長してゆくのです。このように仏教では、何を行うときでも、心を清らかにすることが優先だと考えているのです。

それから経典では、出家者にお布施することも薦めています。出家者たちは世俗の欲望を捨て、経済活動をやめ、在家生活を放棄しています。だからといって怠けているのではありません。人間として最も重要な仕事である「心を清らかにすること」にチャレンジしているのです。お釈迦さまは、悟りを開かれてから涅槃に入るまでの四十五年間、人びとに「偉大なる真理」を説き続けられました。なぜそれができたのかといいますと、在家の方々のお布施があったからです。またお釈迦さまには、大勢の出家の弟子たちがいましたが、彼らを支えたのも在家の信者さんです。出家者が修行をするためには、体を維持しなければなりません。食飲物や身に纏うもの、住む処が必要です。その、生活に必要な衣食住薬を、在家の信者さんがお布施して支えていたのです。そのおかげで、偉大なるお釈迦さまの教えは、二千五百年以上経った今日でも、色褪せることなく、脈々と生き続けています。そして現代に生きる私たちも、当時、お釈迦さまが説かれた真理を実践して、幸福を得ることができるのです。ですから出家者にお布施をすることは、仏教そのものを守る大変尊い行為であり、その徳は、ものすごく高いのです。

Q&A

(Q) 「善行為をするときは人に知られないようにやりなさい」ということをよく聞きますし、他宗教でもそう教えているようですが、募金などをするときは匿名にしたほうがいいのでしょうか。仏教ではこの点ついてどう考えていますか。

(A) 「人に認められたい、褒められたい」という目的で物を与える場合、それは純粋な与える行為だとは言い難いのです。「私はこれだけのことをやったぞ」と威張って宣伝すると、それはただの商売になります。キリスト教の聖書にも「右手のしていることを左手に知られないようにしなさい」という有名な言葉がありますが、そちらでも商売感覚や宣伝機能を断ち切るために、内緒で与えなさいと教えているのです。
しかし仏教では「○○さんはこんな善いことをしました」と周りの人が宣伝することは認めています。そうすると、それを知った人たちも善い影響を受けて、善い行為をするようになるでしょう。それで「徳」が広がってゆくのです。もし誰も知らないなら「徳を積んだ、良かった」という自分だけの満足で終わりかねません。仏教は、自分だけでなく他人も幸福になりましょうという大きな世界ですから、他人の善行為を皆で分かち合い、喜ぶことも大切に考えているのです。
(完)
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アルボムッレ・スマナサーラ長老法話
文:出村佳子

2012/09/06

幸福の見積書 6

与えることの喜び「損得勘定の智慧5」の続き


何を、誰に、与えるか

人にものを与えるとき、私たちはさまざまなものを与えることができます。お金を持っている人は、それを必要としている人にあげられますし、知識のある人は、役に立つ情報や知識を教えることができます。電車の中で座席を譲ることも与えることですし、町に落ちているゴミを拾ったり掃除をしたりするなら、それはきれいな環境を与えたことになります。健康な人は献血をすることもできるでしょう。病気で体を動かせない人でも、面倒を見てくれる人に対して優しい言葉や気遣いの言葉をかけることができます。これらはすべて与えることなのです。ですから「与える」という善行為は、裕福な金持ちだけでなく、子供でも、お年寄りでも、健康な人でも、病気の人でも、誰でもできる行為なのです。
次に、それを「誰にあげるか」ということも考えなければなりません。自分が与えたいからといって、むやみに誰にでもあげていいというわけではないのです。たとえば砂糖がたっぷり入った甘いケーキを、糖尿病を患っている人にあげても仕方がないでしょう。相手にとっては大変な迷惑です。それでは与えたことになりません。ですから何を与えるにせよ、相手に必要なもの、役に立つものを与えるべきです。この点に、よく気をつけてください。

与えるものは最大に

それから与えるときには、自分にできる最大のものを与えることが大切です。物惜しみをしてはいけません。たとえば人に何か仕事を頼まれたとしましょう。頼まれるということは自分にできるということですから、そのときはいい加減で中途半端にやったり、手を抜いたりしないで、精一杯のことをやってあげるのです。いちばん良いのは、相手が期待している以上のことを行うことでしょう。そうすれば相手は「あなたに頼んで本当によかった!」と喜んで、満足してくれますし、自分も「役に立ててよかった」と充実感を感じることができるのです。
他方、得るものの方は「適量」でいいのです。最大ではありません。なぜなら「得る」ということは「欲」と同じで際限が無いからです。たとえば、いくらお金が欲しいですかと聞かれると、皆さんはどうお答えになりますか? お金が無いときは一万円でいいと言うかもしれません。しかし一万円が手に入ると、今度は二万円、五万円、十万円、百万円……と、どんどん膨らんでゆくのです。結局いくらあっても「もうちょっと欲しい」と望むことになるでしょう。欲にはきりがありません。止まることなくどんどん膨らんでゆきます。しかし不幸なことに、自分が欲するものをすべて獲得するのは不可能です。また、たとえ獲得しても、それは一時的なものですから存続しません。この「欲しいものが手に入らない」ということから生まれる不満感で、私たちはずっと苦しみ続けるのです。
そこで仏教は「得るものは適量」ということを教えています。無制限に「いくらでも欲しい」と考えるのではなく、「自分が幸せに生きるためにはこのぐらいで充分」という適量を計算し、知っておくことが大事なのです。

慢性的受難症

「受難症」という病気があります。現代医学では未だにこの病気を発見していませんが、お釈迦さまは今から約二千六百年も前に、すでに発見されていました。受難症とは仏教で言う「苦」のことです。なぜ私たちは苦しんでいるのかと言いますと、それは少量しか与えていないのに多くのものを得たいと期待しているからです。ろくに仕事をしていないのに「こんな安い給料ではやっていけない、給料をあげてくれ」とか「昇進させてほしい」と文句を言うでしょう。これは受難症です。こう言う人たちに逆にお聞きしたいのですが、あなたはどのぐらい仕事をしていますか、どのぐらい会社の利益に貢献しているのですか、と。自分は少ししか与えていないのに、会社から多くのものを貰おうと期待しても、それは所詮無理な話です。このような不平不満の性格では、一生、苦しむことになるでしょう。
そこで仏教では、俗世間の考え方とは正反対の「与えるものは最大に、得るものは適量を」ということを教えています。これを実践することによって受難症という苦しみが消滅し、満足という幸福が得られるのです。

足るを知る

ある日、お釈迦さまは出家者に、このように教えられました。「病気になったら比丘たちは薬として牛の尿を飲んでください。それが適量です、満足しなさい。もしどなたかに塗り薬や飲み薬を貰ったなら、あなたは余計に得をしているのです」と。出家者は病気になったとき、名医に診て欲しいとか、良く効く薬が欲しいなど、わがままを言ってはなりません。牛の尿で充分なのです。お釈迦さまがそう教えられたのですから、お釈迦さまに対して敬意を払って飲めば、それで元気になると思います。ただ、医学が発展した日本では化学薬品は山ほどあるのに、牛の尿は手に入らないという状況になっていますが―― 。
それから衣についてお釈迦さまは「その辺に捨ててある布切れの縫い合わせで充分です。それで満足しなさい。もし誰かが布を一枚くれたなら、あなたは大変な得をしています」と言われました。食べものについても「托鉢に出かけたとき、信者さんが残りものや要らないものを鉢に入れてくれたなら、それで充分です。もし食事をつくってくれたなら、あなたは大変な得をしているのです」と。住む処についても「枝や葉を屋根にして、木の下で寝ればそれで充分です。屋根のついた家に住むというのは大変なことです」とおっしゃいました。
要するに、お釈迦さまは「必要最小限の生活で満足しなさい」と教えられているのです。これは在家の方も同じです。私たちが「最小限」という限度を知らないかぎり、受難症という病気は治りません。いくらあっても「足りない」と不満を感じ、苦しむことになるのです。
そこで、最小限のもので満足できるように心を育てたなら、他人からほんの少し何かを貰っただけで、楽しい気分になれるのです。不平不満もたちまち吹っ飛んでしまいます。これで人生を楽に過ごすことができるのです

正しい見積書と誤算

幸福の見積書

さて、これまで述べてきたことをまとめながら「幸福の見積書」を作成してみましょう。ポイントは、自分が貰うことでなく、与えることを念頭に置いておくことです。先ず「自分は何を与えることができるか」と考えてください。物でも、お金でも、才能でも、労力による奉仕でも、何でもよいのです。自分が持っているものや出来ることなど、与えられるものを見つけてください。そして次に、それを必要としている人に与えるのです。でたらめに誰にでもあげればいいというわけではありません。相手を選択すべきです。これは誰にとって最大に有効か、役に立つか、ということを考えて、そちらに与えるのです。そして、得るものの方は「適量」というところで満足するのです。これで幸福の見積書は完成です。あとはこれを実践すればいいのです。見積書を作っただけでは幸福になれません。実践を通して初めて私たちは幸福に生きることができるのです。
反対に、幸福の見積書とは逆の行為をしていると、誤算が生じ、苦しみの人生を送ることになります。つまり自分からは何も与えない、貰うことばかり考える、要らないという人に対して一方的に、強引に押しつける、得ているものに満足せず「足りない、足りない」と言って不平不満を抱くことです。

豊かさの悩み

「幸福の見積書」に従って生活していますと、たいていの場合、自分が思っているよりも多くのものが入ってくるものです。つまり仏教的に生きているなら「私は一万円でよかったのに五万円も貰ってしまった、どうしようか」とか「こんなにくれなくてもいいのに」と、貰った給料の一部を返したくなるような、そんな気持ちになるのです。皆さんはこのような豊かさの悩みを味わったことがありますか? 普通は「残業までしたのに一万円しか貰えなかった、やってられない」などと愚痴をこぼすでしょう。これは俗世間の価値観で生きているからです。仏教は、このような不満の状態を逆転させて、満足だけの生き方を教えているのです。そのためには、先ほど作成した「幸福の見積書」を実践することです。
(続きます)
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アルボムッレ・スマナサーラ長老法話
文:出村佳子