宝物か、生ごみか?
六つの感覚器官のなかで最も強烈な刺激の網は「意」です。
私たちは自分の考えや思考、意見に多大な価値を入れ、固くしがみついています。
「私の考えはこうだ」「これが私の見解だ」「私の意見は正しい」「あなたの意見は間違っている」などと。
でも結論を申しますと、自分の考えというものは単なる臭い生ごみで、何の役にも立たないものなのです。
思考も、意見も、見解も、概念も、知識も、どうということはありません。
しかし私たちは、これらを生ごみだと思うどころか、逆に、宝物のように大事に抱え込んでいます。
そしてそこから争いや対立など、あらゆる苦しみが生じているのです。
たとえばお姑さんが「うちの嫁はだらしなくて性格が悪い」と思っているとしましょう。
しかしそれはお姑さんの妄想であって、事実ではありません。
旦那さんは「良い妻だ」と思っているかもしれませんし、子供たちは「いいお母さん」と思っているかもしれません。
「嫁の性格が悪い」というのは、お姑さんの主観であり勝手な妄想なのです。
そしてその妄想が、嫁姑の関係をぎくしゃくさせ、家庭全体の明るい雰囲気を壊しているのです。
宗教間でも対立が絶えません。
同じ宗教のなかでも派閥争いがあり、互いに厳しく睨み合っています。
なぜでしょうか?
それぞれが「自分の教えこそが正しい、他の教えは間違っている」と自分の教えを固く信奉しているからです。
そのため自分と異なる信仰をもつ人と話しをすると、意見の食い違いから、争いや対立が起こるのです。
たとえばプロテスタントの信者さんが、カトリックの神父さんに「プロテスタントの教えこそが正しい」と言ったなら、即座に追い出されるでしょう。「何を言うのか、あれは悪魔の教えだ」と。
普段は一般の人々に向かって「他人を憎んではいけません、喧嘩してはいけません」と教えている神父さんでも、実際には、自分の信仰や見解、概念の網に捕らえられて、苦しんでいるのです。
そこでこの苦しみを解決するためには「自分の考えは生ごみである」ということを理解して、自分の思考に対する執着を捨てることです。
そうすることで、対立や争いのない、平和で安穏な世界が現れるのです。
なぜ、お化けが出るのか?
刺激の世界のことを仏教専門用語では、カーマチャンダ(kâmachanda)と言います。
カーマ(kâma)は「欲」という意味ですが、「欲の対象」という意味もあります。
具体的に言いますと、眼に触れる色や形、耳に触れる音、鼻に触れる香り、舌に触れる味、体に触れる感触、頭のなかで回転する概念のことで、色声香味触法のことです。
チャンダ(chanda)は「好む、気にいる」という意味です。
そこでカーマチャンダとは「色声香味触法が好きで気に入っている」という意味になります。
私たちは色声香味触法が好きで、常に何らかの刺激を追い求めています。
音楽を聴いたり、テレビを見たり、本を読んだり、ご飯を食べたり、仕事をしたり、運動したり。
そこでこれらの感覚の対象がなくなると、すごく寂しくなるのです。
たとえば、見えるものがいっぱいあるときは楽しいのですが、それが少なくなると寂しくなり、何も見えなくなると恐怖を感じるのです。
真っ暗闇は怖くありませんか? お化けはなぜ夜に出るのでしょう? なぜ昼に出てこないのでしょうか?
あれは暗闇から出てくる人間の恐怖感なのです。
夜は暗い、暗いところでは何も見えない、見えないから怖い、だからお化けが出る、と思っているのです。
でも本当はお化けが怖いのではなく、眼から刺激が得られなくなったから怖くなったのです。
感覚の対象がなくなると、私たちはものすごく恐怖を覚えるのです。
恐怖の正体
これまで何人もの人に「わたしは恐怖感が強いのですが、どうすれば治りますか」という質問を受けました。
上司が怖い、姑が怖い、学校に行くのが怖い、職場が怖い、あれも怖い、これも怖い、どうすればいいのでしょうかと。
そこで私はまず「なぜ怖いのですか、何が怖いのですか」と聞き返して、本人にその問題を考えさせるようにします。
これで治る場合もありますが、だいたいは、「なぜ怖いのか」分からない人がほとんどです。
なぜ怖いのか、その答えを出しましょう。
この法話の始めにもお話しましたが、刺激を受けるということは、生きるということです。
とすると、刺激がないということは何を意味するでしょうか?
生きられないということです。
生きられないということはどういうことですか?
死ぬということです。
答えはこれです。私たちは死ぬのが怖いのです。
暗闇が怖いといっても、その根底にあるのは、死ぬのが怖いという恐怖感です。
お化けが怖いといっても、お化けに殺された人は一人もいません。
熊や人間に殺された人は大勢いますが、お化けに殺された人は一人もいないのです。
しかし私たちは熊や人間より、お化けが怖いと言うのです。これはまったくの屁理屈です。
本当のところ、私たちは刺激がないこと、つまり死ぬのが怖いのです。
楽しく賑やかにパーティーをしているところにお化けが出るとは誰も言わないでしょう。
でも暗闇の殺風景な墓場にはお化けが出ると言うのです。
刺激がなくなると、私たちは急に寂しくなって怖くなり、お化けが出ると妄想するのです。
しかし実際には、眼耳鼻舌身から刺激が得られなくなったから怖くなったのであり、さらにその根本原因は「死ぬのが怖い」という死の恐怖なのです。
心の一番底に沈んでいるのは「死にたくない」という恐怖です。
これには解決法がありません。
どんなに踏ん張っても、人は必ず死にますから。
他の宗教では「死んでも大丈夫、永遠の天国があるから」と言っていますが、仏教は「生命は必ず死にます」と真実を告げます。
嘘やごまかしは言いません。「みんな死にます」とはっきり言うのです。
そして「死ぬのが怖いなら、闇雲に脅えているのではなく、死んでも大丈夫という生き方をしたらどうですか」と、正しい生き方を教えているのです。
将来のことを妄想して脅えるのではなく「いつ死んでも大丈夫」という生き方をしてはいかがでしょうかと。
死の恐怖を乗り越える
そこで、生きるのが怖いとか、自信がないと悩んでいる人は、「自分は本当は死を怖れている」ということを理解してほしいのです。
人間は誰でも死にます。
私たちは今ほんのちょっとの間、生きているにすぎません。
生きれば生きるほど体が衰えますし、瞬間瞬間、死に近づいているのです。
どんなに良い家族に恵まれていても、仕事で成功して万事うまくいっていても、それはせいぜい80年か90年ぐらいのこと。遅かれ早かれ、必ず死ぬのです。
この事実を正しく観察することによって、私たちは恐怖や不安などの精神的な病気から解放されるのです。
でも私たちは、死の観察はやりませんし、やりたがりません。
死は不幸の象徴であり、不吉なものだと考えています。
誰かが死んだとき「○○さんが死んだ」とは言わないでしょう。「他界しました」とか「天国に行きました」と言うのです。
私たちは「死」という言葉さえ、口に出そうとしないのです。
でも死の恐怖を乗り越えたければ、死を観察するしか方法がありません。
そこで私たちは色声香味触法が好きで、瞬間瞬間何らかの刺激を求めています。「生きる」ということは「刺激を受ける」ということなのです。
ご飯を食べることも、服を着ることも、趣味や娯楽を楽しむことも、芸術や文化、哲学や宗教をつくることも、すべては人間が刺激を得るためにやっていることなのです。
しかし、どんなに刺激を得ても、私たちの心は満足しません。
いつでも「何か足りない、もっと欲しい」という思いが心に残るのです。
何かを得てもそれには満足できませんから、別の刺激を求めます。
それにも満足できませんから、また別の刺激を求めます。
このようにして私たちは限りなく刺激を求め続けるのです。
これが「カーマチャンダ」という病気で、すべての生命は、この網に引っ掛かって苦しんでいるのです。
そこで、超越した智慧の次元に足を踏み入れたい人は、カーマチャンダの網を破らなければなりません。
この網を破ったとき初めて、完全なる自由の世界が現れてくるのです。
(続きます)
A. スマナサーラ長老 法話
文責:出村佳子