☆『慈悲の瞑想ー慈しみの心』新装版
バンテ・ヘーネポラ・グナラタナ著、出村佳子訳(春秋社)
が刊行されました。
自分への思いやりから広がる、他者・社会へのやさしい気持ち。
おだやかに明るく生きるための、心を育てる瞑想ガイド。
多くの方に慈しみが届きますように……
書店等で見かけましたら、ぜひお手にとってご覧いただければ幸いです。
*本文は旧版と同じになります。
☆『慈悲の瞑想ー慈しみの心』新装版
バンテ・ヘーネポラ・グナラタナ著、出村佳子訳(春秋社)
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おだやかに明るく生きるための、心を育てる瞑想ガイド。
多くの方に慈しみが届きますように……
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8 シンプルで養いやすい(subharo)
・おおらかな心で
善い習慣の8番目は、「スバロー(subharo)」です。
「養いやすい」という意味です。
生き方がシンプルで、不平不満がほとんどありません。
その人の生き方は、シンプルです。
頭のなかもシンプルで、あれこれ考えることはしません。
容易にイラついたり、動揺したりすることもありません。
心はおおらかなのです。
ブッダは、「養いやすいことは善い性格である」とおっしゃいました。
これも、次の章で述べる「10の善行為」の実践を助けてくれるのです。
『慈経に学ぶ〈15の善習慣〉と〈10の善行為〉』
「15の善習慣 8. シンプルで養いやすい(subharo)」より
チャンディマ・ガンゴダウィラ長老(著)
2.怒りではなく、やさしさを選択する
2番目は、やさしさを選ぶことです。怒りや対立は選びません。
怒ったり、嫉妬したり、憎んだりすることは、簡単にできます。幼い子どもにでもできますね。何か気に入らない言葉を聞いたとたん、腹が立ち、とっさに怒りで反応してしまうでしょう。
そこに、「どんな反応をしようか」と選ぶ余裕はありません。
一方、自分を含め、生きとし生けるものにたいしてやさしい気持ちで接することは、たやすいことではありません。
また、他人と調和を保ち、仲よくすることにも、それなりに努力が必要です。
さらに高いレベルは、状況にかかわらず、他の生命にたいし、一貫してやさしさを抱くことです。
たとえば、自分が不当な扱いを受けたり傷つけられたとき、冷静に落ち着いていることはできるでしょうか?
ひどい目に遭ったとき、怒らず、心に慈しみを抱きつづけることはできるでしょうか?
これには心の落ち着きや忍耐、精進が欠かせません。ですから日々練習し、訓練することが必要なのです。
やさしい心でいることは、私たちにこの上ない幸せをもたらしてくれます。これが、怒りや憎しみ、対立ではなく、やさしさを選択するようにと、ブッダがおっしゃった理由なのです。
「心が満たされている」ことです。
自分が置かれている状況や自分にあるもの、まわりで起きているできごとにたいして満足することができれば、私たちは日々、満ち足りて過ごすことができます。
みなさんは自分の人生に満足していますか? それとも「欲しいものリスト」に項目がたくさんありますか?
自分の生活にあまり満足していない人は、結構多いようです。
欲しいものが多ければ多いほど、当然、不満や失望、落ち込みも増大していくのです。
では、どうすれば心が満ち足りるのでしょうか?
自分にすでにそなわっているもの、いまあるものを、自分のなかに見いだすようにしてください。
そうすれば、心は満たされるでしょう。
足ることを知り、充足感を味わうことは、とても善い習慣です。
不満をベースとした生き方から、充実感をベースとした生き方へ転換するのです。
『慈経に学ぶ〈15の善習慣〉と〈10の善行為〉』
「15の善習慣 6. 謙虚さ(anatimānī)」より
チャンディマ・ガンゴダウィラ長老(著)
善い習慣の6番目は、「アナティマーニー(anatimānī)」です。
これは、傲慢ではなく謙虚であることです。
なぜ、謙虚さを身につける必要があるのでしょうか?
謙虚な人は、現実的で、正直で、地に足が着いています。
私たちは地に足をしっかり着けて生きるべきであって、宙に浮いたようにフワフワしていてはいけません。
威張って傲慢で生きるべきではありません。
そのためには、謙虚で落ち着いている必要があります。
ブッダは私たちに、いつでも謙虚でいるようにとおっしゃいました。
謙虚でいることは、私たちが生きるうえで非常に重要なことです。
ブッダはとても謙虚な方でした。悟りを開く前、どの過去世においても菩薩として謙虚でいたことの例が、『ジャータカ物語(前世物語)』に記されています。
どの「生」でも、ブッダはずっと謙虚な性格でいたのです。
私たちも、謙虚さを習慣にし、身につけるべきです。
謙虚でいることは、悟りに達するために欠かせない要素なのです。
『慈経に学ぶ〈15の善習慣〉と〈10の善行為〉』
「15の善習慣 6. 謙虚さ(anatimānī)」より
チャンディマ・ガンゴダウィラ長老(著)
みなさんは日々、自分を大事にまもっていることと思います。
ケガをすれば手当てをし、病気になればクスリを飲み、お腹が空けば何かを食べ、疲れたら休むなど、自分を大事にまもっているでしょう。ケガをしたまま、のどが渇いたまま、お腹がすいたまま、何日もほったらかしにしている方はいらっしゃらないと思います。
また、家族や財産も大事にまもっているでしょう。家の玄関にカギをかけたり防犯カメラをつけたりなど対策をしっかりとっているのではないでしょうか。
このように、人はさまざまなかたちで自分自身や家族、財産などをまもっています。
でも、それで十分でしょうか? 何か忘れているものがありませんか?
「心」はまもっているでしょうか? 「思考」はどうでしょうか?
ある日、ブッダは「自己を真にまもるとはどのようなことか」、また「自己をまもっているかどうかを見分ける方法」について説かれました。
ご紹介する経典は、「Attarakkhita Sutta(アッタラッキタ・スッタ)」です。
Atta(アッタ)とは「私」や「自己」という意味、rakkhita(ラッキタ)とは「まもられている」という意味で、合わせて「自己がまもられている」という意味になります。
「自己をまもる」とは一般的に、内と外から生じうる危険、危害をもたらす関係や状況など、さまざまなトラブルから自己をまもるということです。
まもることができたら、次に安全を保つ必要があります。
安全とは何でしょうか?
ひとつは身体の安全です。なかでも健康ですね。私たちはみな身体を持っています。身体を持っているかぎり病気になることは免れませんが、それでもできるかぎり健康を保つようケアをし、メインテナンスをすることが必要なのです。
ブッダは『ダンマパダ(Dhammapada)』において、
「健康は最上の利得である」
(Ārogyaparamā lābhā)
と説かれました。
利得には、お金や財産、繁栄、成功、地位などいろいろなものがありますが、どんな利得よりも健康が最高の利得である、とブッダはおっしゃっています。
健康であるからこそ、私たちは元気に活動したり、働いたり、善い行為をしたりすることができるのです。
それから、「身体」や「財産」をまもることより大切なのは、「心」をまもることです。「心」をまもることは、ほかの何をまもることよりも遥かに大切なことなのです。
『セルフケア:ブッダが教えた〈心〉と〈言葉〉と〈身体〉のととのえ方』
「はじめに:ブッダが教えた 自分と他者のまもり方」より
「どこへ行こうと、何をしようと、柔和であるように」
とブッダはおっしゃいました。
柔和であるためには、心に柔軟性がなければなりません。相手のことを知り、理解することが大切です。
相手はどのような見方や考えを持っていますか?
たとえ意見や立場が違っても、相手のことを尊重し、理解していれば、人間関係はスムーズに運びます。
反対に、家族や友人など親しい人のあいだでも、もし相手の意見や立場を尊重せず、自分のわがままを押しとおし、適切な接し方を知らなければ、トラブルが起こるでしょう。
自分が間違っていたり、意見や考えを変える必要があることを知りながらも、それを変えずにいることは、柔軟性に欠けています。その結果、家族や友人から疎まれてしまうのです。
ブッダは私たちに、柔和で柔軟になるようすすめています。
柔和な人は穏やかで、精神的に安定しています。
それで、相手やまわりの状況、環境の変化にたいして効果的に対応することができるのです。
『慈経に学ぶ〈15の善習慣〉と〈10の善行為〉』
「15の善習慣 5. 心の柔和さ(mudu)」より
チャンディマ・ガンゴダウィラ長老(著)
「スワチョー(suvaco)」とは何でしょうか?
適切な人にたいして心をひらき、指導やアドバイスを求めることができること、
また人の話をよく聴き、アドバイスされやすく、教わりやすい性格でいることです。
みなさんは、自分はすでに完璧で、他人からの指導やアドバイスは必要ないと思っていませんか? そのように考えていませんか?
それは、よいメンタリティではありません。
とはいえ、誰からでも指導を受ければいいというものでもありません。
受ける人に気をつけることも大切です。
愚かな人からではなく、善い人から指導を受けることが大切なのです。このことを知っておくとよいでしょう。
ブッダは、こうおっしゃっています。
適切な人に助言やアドバイスを求めるなら、多くのことが学べます。あなたが何か間違ったことをしたときには、それを指摘し、教えてくれるでしょう、と。
これは、人が成長するうえで欠かせないことです。
なぜなら人は誰でも不完全なのだから――。ダメなところや弱いところ、短所、欠点などがいろいろあり、それを直していくことこそ、人がすべきことなのです。
『慈経に学ぶ〈15の善習慣〉と〈10の善行為〉』
「15の善習慣 :4. 助言を求め、よく聴くこと(suvaco)」より
チャンディマ・ガンゴダウィラ長老(著)
どんな習慣であれ、善い習慣を身につけるためには、チャレンジが欠かせません。努力が必要なのです。
でも、感情がどうしても先立ってしまい、感情に負けてしまうことが多々あります。
たとえば、「怒ることはよくない、誰にたいしても慈しみで接したほうがいい」ということは、みなさんよくご存じだと思います。
でも、実際に何かイヤなことがあったとき、腹が立ち、怒りをそのまま言葉や行動に表わしていませんか?
嫉妬することはよくないことだと知っていますが、実際に嫉妬がわき起こったとき、嫉妬にとらわれ、嫉妬から脱け出せなくなることがありませんか?
そこなのです。
そこで、私たちがすべきことは、苦しみをもたらす感情から離れるようチャレンジすることです。
瞑想しているときだけでなく、職場にいるときでも、家庭にいるときでも、どこにいるときでも、日常生活のなかで感情が生じたとき、それにすぐに気づき、観察して、とらわれないようにするのです。
心を清らかにするためには、精進(viriya)が欠かせません。
もし精進せず、実践もしなければ、いくら仏教を学んでも、学問としての知識に留まるだけでしょう。
学んだことを実生活に活かすことはできません。
知識を得るだけで実践しなければ、現実の生き方が改善することはなく、向上することもありません。
机上の学問は、現実の人生ではないのですから――。
したがって、日々、慈悲を実践し、育てる努力をすることは、欠かせないことなのです。
では、「慈悲喜捨」とはどのようなものかを簡単にご説明しましょう。
『慈経に学ぶ〈15の善習慣〉と〈10の善行為〉』
「15の善習慣 1. 能力がある(sakko)」より
チャンディマ・ガンゴダウィラ長老(著)
最後は「捨(ウペッカー)」です。
ウペッカーとは、どんな人に出会っても、どんな困難な状況に陥っても、理解し、落ち着いていられる平静なこころのことです。
どんな生命も、「幸せになりたい、安心して楽しく暮らしたい」と願っています。「不幸になりたい、苦しみたい、嫌われたい」と望んでいる生命はいません。
その観点から見れば、生命はみな同じです。
平等なのです。
このことが理解できれば、たとえ苦手な人(生命)がいたとしても、
「この人も自分と同じように幸せを望んでいる」と考えて、落ち着いていることができるでしょう。
嫌悪感はもう生まれません。
この、「みなを平等に観て、落ち着いているこころ」がウペッカーなのです。
『慈経に学ぶ〈15の善習慣〉と〈10の善行為〉』
幸せをつくる15の善習慣「捨(upekkhā:ウペッカー)」より
チャンディマ・ガンゴダウィラ長老(著)
習慣は、ある意味、危険なものでもあります。
よい習慣ならいいのですが、悪い習慣の場合には、さまざまな問題を引き起こします。
というのも、人は楽なほうへ楽なほうへ流されやすいのだから――。
ほうっておけば悪い習慣に支配され、苦しみが増大するでしょう。
それで人生は閉ざされてしまうのです。
仏教は人々に、善い習慣を身につけるよう教えています。それによって生き方が調和し、人生がひらけてくるのです。
本章でお話するのは、ブッダが教えた「善い習慣」です。ブッダは善い習慣について具体的に説かれました。
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そこで、この善い習慣を新しく身につけるためには、こつこつ取り組んでいくことがカギになります。
悪いクセが心にしみついている方は、もしかすると身につけるのに時間がかかるかもしれません。
しかし、これは苦労してでも育てる価値があるものです。
人生を幸せにし、悩み苦しみをなくしたければ、善い習慣を身につけることは欠かせないことなのです。
それでは、これから「15の善い習慣」とはどのようなものか、ひとつずつ学んでいきましょう。
『慈経に学ぶ〈15の善習慣〉と〈10の善行為〉』
第1章 幸せをつくる15の善習慣「善い習慣が善い性格をつくる」より
チャンディマ・ガンゴダウィラ長老(著)
「日々、心穏やかに生きていきたいんですが、どうすればよいのかわかりません……」
こういった質問をいただくことが、よくあります。
みなさんも、一度は疑問に思ったことがあるかもしれません。
ブッダは、「悩み苦しみをなくし、幸せにいたる道」を教えられました。
その道は「一つの道」ですが、聴く人がそれぞれ理解できるよう、ブッダはさまざまなアプローチをとって法(ダンマ)を説かれました。
本書では、私たちが幸せになるためにどうしても欠かせない「善い習慣(善習慣)」と「善い行為(善行為)」についてお話いたしましょう。
「善習慣」が15項目、「善行為」が10項目あります。
そのひとつひとつが互いに支え合い、協力し合い、連動し合いながら、心は少しずつ成長し、清らかになっていきます。
やがて、揺らぐことのない幸せが築かれ、涅槃に到達できるでしょう。
まず、「善習慣」とは何か、「善行為」とは何か、ということについてお話いたします。
「善習慣」と「善行為」の2つのセットがあります。
この2つのセットがそれぞれどのようなものかを理解するようにしてください。
その後、なぜこの2つのセットを実践することが必要なのか、ということについて学んでみましょう。
『慈経に学ぶ〈15の善習慣〉と〈10の善行為〉』
はじめに――善習慣と善行為より
チャンディマ・ガンゴダウィラ長老著
立っているときも、歩いているときも、
座っているときも、横になっているときも、眠っていないかぎりは、
慈しみの念(sati)を保ってください。
これは梵天の(崇高な)生き方であると言われています。
このように実践する人は、
邪見を乗り越えます。
いつでも戒を保ちます。
正見が得られます。
諸々の欲望にたいする執着がなくなります。
輪廻を繰り返すことはありません。
母体に宿ることはもうありません。
第22回 チャンディマ長老 法話会
「慈しみの実践で大切なこと ~瞑想か、心のあり方か?」
Is Friendliness (mettā) a split-second meditation or an attitude?
をオンラインzoomで開催いたします。
知っていると思いがちな「慈しみ」について、さらに一歩進んだ大切なポイントを学んでみましょう。
先月9月23(金・祝)日は、チャンディマ長老による20回目の瞑想と法話会でした。
法話が終わり、みなで回向をしたあと、チャンディマ長老がこの20回を軽く振り返ってくださいました。
個人的には、2年ほど続けてこられているのと、多くの法友さんと一緒に学べていることが嬉しい。
生きとし生けるものが幸せでありますように
安穏でありますように
危害がありませんように
困難や問題に出あったとき
忍耐、勇気、理解をもって乗り越えられますように
「読経と慈悲の瞑想 with チャンディマ長老⑥」 2022/3/20(日)10:00~