すでにやってしまった行為を過去に戻って取り消すことは、私たちにはできません。
いくら悔やんだり、悩んだりしても、やった出来事をなかったことにすることはできません。
それなら、どうすればよいのでしょうか? 苦しみの報いを受けるしかないのでしょうか?
ブッダはその解決策を教えてくださっています。
それは、「いま最善を尽くして、善い行為をすること」です。
過去はもう戻ってきません。
将来はどうなるのかわかりません。
でも、いまの瞬間なら、その条件の中で、ある程度はどのようにでもできるのです。
この経典では、「業(行為と結果の現れ方)は直線ではない」ということが説かれています。
もし「業」が直線で、すでに定められているなら、過去におこなった悪行為にたいして、私たちはもうどうすることもできません。苦しみの報いを受けるしかないでしょう。
でも幸い、「業」は直線ではありません。あらゆるものごとは無常であり、変化しています。
チャンディマ長老は、だからこそ、ブッダが説いた「業の複雑性」を理解して、常に正見を保ち、いまを最善に生きるよう、強くすすめてくださっています。
結局のところ、私たちが今後どうなるのか、どう死ぬのか、どこに生まれ変わるのかということは、いまをどう生きるのかにかかっているのでしょう。
本書は、過去のことに左右されず、いま心を清らかにし、正見を持って、「道」を前向きに歩んでいくことについて説いた、チャンディマ・ガンゴダウィラ長老による経典解説講義の日本語訳です。
〈目次〉
はじめに
第1章 業(行為と結果)はなぜ直線ではないのか?
■ 業(カルマ)とは何か?■ 業は単純なもの?(『小業分別経』より)
■ 「A⇒Bへの直線関係」ではない
■ 4種の人
■ なぜ「善人が地獄へ」「悪人が天界へ」転生するのか?
■ ブッダの結論
第2章 「業は直線ではない」ことの実例
■ 殺戮者が悟りを開く■ 死刑執行人が天界へ
■ 比類なき善業を積んだマッリカー妃の転生先
■ 死ぬ間際に何を考えるか?
■ 正見を持って善行為をする
第3章 「いま」を最善に生きる(Q&A)
■ 鍵は、正見■ 重罪を犯した人
■ モッガラーナ長老のケース
■ 善業を積むことの大切さ
■ 輪廻を終えるまで
訳者あとがきー「大切なのは、いま」
著者紹介
〈著者プロフィール〉
チャンディマ・ガンゴダウィラ長老
Ven. Dr. Chandima Gangodawila
カナダに渡り、ブリティッシュコロンビア大学で4年間、仏教チャプレンを務め、さらにヴィクトリア大学で教鞭を執る。
現在、カナダのオタワに在住。カナダを中心に、イギリスのケンブリッジ大学、アメリカ、マレーシア、タイ、スリランカの大学や寺院で、講義や法話をおこなっている。
著書に『幸せへの鍵:慈経(Metta Sutta)に学ぶ〈15の善習慣〉と〈10の善行為〉』『妄想の対処法:マドゥピンディカ・スッタ(蜜丸経)』(Sukhi Hotu)、英語の著書や論文に “A Critical appraisal of the contribution of Germany and France to Sanskrit studies” “An Annotated Translation Into English Of Ratnamālāvadāna With A Critical Introduction” などがある。
Authentic Buddhism(YouTube)で、ブッダの教えを伝え続けている。
2019-05-18
チャンディマ長老ってどんな方?
ひとことで言うと、ユーモアがあり、明るく、とてもオープンな方です。テーラワーダ仏教長老の中でも一握りの方しか得られないRoyal Panditという試験に、わずか19歳で合格し、大学と大学院を優秀な成績で卒業しました。
周りからは学者僧として活躍することを期待されていたようですが、それらをすべて捨てて、カナダに渡りました。学者としての道(机上の学問)にこだわりはなかったようです。というより、実践の道を選びたかったとおっしゃっています。
カナダや欧米ではその見解の広さを発揮し、流暢な英語を使って、西洋人に向けて講演や法話をされています。
西洋ではいま、西洋式マインドフルネスの瞑想が人気になっていますが、そのような中でチャンディマ長老は、「それなりに効果はあるかもしれないが、それだけに留まるべきではない。ブッダの教えを真に実践しなければ、心の悩み苦しみをなくすことは難しい」とおっしゃり、ブッダの教えを歪めることなく伝え続けていらっしゃいます。
法話を日本語でお読みいただけますので、よろしかったらぜひご覧ください。
『マドゥピンディカ・スッタ(蜜丸経)』
To end all suffering is the ultimate goal in Buddhism.
to be there we need to "learn and practice".
"learn" alone could not take us to the ultimate goal in Buddhism.