恐怖の仕組み
自作の安全
人が怯え・不安・恐怖感を感じるのは当然ですが、その原因はわからないのです。まず、最初の原因を説明しましょう。人は皆、「自作の安全」という感情を持っています。それは人に限ったものではなく、すべての生命が自作安全というセキュリティ・システムに入っているのです。面白いことは、自分が自分で作ったセキュリティ・システムに頼って生きていることに気がつかないことです。自作安全だから、その強度は人の能力によって変わります。自分で作ったセキュリティ・システムは、ときどき攻撃を受けます。それで、セキュリティ・システムが壊れてしまう危険性が生じます。そのとき、人は恐怖を感じるのです。
これは人に限ったことではありません。神々も恐怖を感じます。経典には、「自分勝手に作ったセキュリティ・システムが壊れると、神々は恐怖感で怯える」と明確にあるのです。
人(生命)は自分特有の安全イメージを持っています。生命の安全イメージは、千差万別です。
赤ちゃんにも自作の安全イメージがあります。しかし、この安全イメージを赤ちゃんのときから老人になるまで、改良し続けなくてはいけないのです。
自作セキュリティ・システムがあまりにも頼りにならないので、年齢に応じて、生きている環境に応じて、自分の職種に応じて、改良しなくてはいけなくなるのです。
改良という単語がふさわしければ、自作セキュリティ・システムは徐々によくなるはずですが、その証拠は見当たりません。
実際には、人はむやみに自作のセキュリティ・システムを変化させてゆくだけなのです。安全イメージはずっと同じではありません。赤ちゃんの安全イメージと中学生の安全イメージは違いますし、大学生の安全イメージはまた違います。小さい子どもたちにとっては、親がそばにいることが徹底的な安全の条件になります。大きくなると親がいなくても、友だちといるときでも、安全イメージを作ります。このように安全イメージは変わります。高齢になると、また変わるのです。高齢の方は、若者と違って宗教や信仰の世界に興味を抱くのです。身体が弱くなってくると、健康なときは一度も行ったことがなかったお寺に足を運びます。日曜日に義理で教会に行っていた人も、歳をとったら毎回、告解室で神父様に真剣に懺悔します。このような態度は、今まで頼っていたセキュリティ・システムが無効になった高齢の方が、新しいセキュリティ・システムを作っているということなのです。
昔も今も、人は何かに頼って安心を確固たるものにしようと頑張ってきました。子供は勉強に励み、若者は仕事に頼ります。銀行の残高に頼る人もいます。このように言うと、ごく当たり前のことのように感じるかも知れません。ここで私は、この生き方を「自作セキュリティ・システム」という新しい単語で紹介しているのです。この単語で考えれば、より深くこの問題が見えてくるはずです。たとえば、安全のために、サラリーマンの方は仕事だけに頼っているわけではないと見えてきます。仕事のほかに、いろいろなものに頼っています。それらをすべてまとめたところで、自作セキュリティ・システムができあがるのです。
自作セキュリティ・システムを批判する必要はないと思います。「私たちは皆、何かしらの自作セキュリティ・システムを作って、安心を感じようとしている」と理解するだけで十分です。
「自分の人生はどうすれば安全だと思いますか?」という質問を自分にしてみてください。どうすれば自分は安全にいられるでしょうか、と聞いてみるのです。明確に自問してみると、自分の自作セキュリティ・システムは曖昧で中途半端で、霧のようなもので、しっかり固まっていないことに気づくはずです。それはそのとおりです。危険は何かとはっきり知っておかないと、安全対策を立てることはできません。
たとえば、自分の家に野生の熊が入り込む恐れがあると知っているならば、熊が入らないよう窓や出入口を閉めておくことはできます。空き巣に入られる恐れがあるならば、防犯カメラをつけたり、警報装置を付けたりすることができます。インフルエンザに罹る恐れがあるならば、ワクチンを注射したりすることができます。
危険はありますが、その危険が何なのかわからない場合はどうしますか?
私たちにはどんな危険がふりかかってくるのかと、予見することができません。ですから、皆の自作セキュリティ・システムは曖昧中途半端で霧のようなものになるのです。
私たちにはなんとなく安全イメージがあるだけです。しかし、なんとなく出来上がっている自作セキュリティ・システムが、さまざまな条件で簡単に壊れます。安全イメージが壊れると、恐怖を感じます。安全が壊れるかもしれないと思っただけでも恐怖が起こるのです。
この精神状態が理解できるでしょうか?
まず、自分には安全イメージがある。でもこれがどのようなものかあまりよくわからない。自分の心によく聞いてみなければわからないのです。ですから自分に聞いてみてください。自分にとって安全とは何かと。そうすると、自分が無意識的に作ったイメージが出てきます。完全には出てきませんが、なんとなくこんな感じか、と出てきます。
人は普通、自分の安全イメージに気づいていませんが、社会でいろいろなできごとが起こると、あの安全イメージが壊れて、恐怖感に陥るのです。
自作の安全イメージに気づいているならば、ある程度で恐怖感を制御することは可能だと思います。
自分の安全イメージが実際に壊れたときだけでなく、壊れると思っただけでも怖くなります。たとえば会社で仕事がうまく進まないとしましょう。自分は年をとって、会社での人間関係も悪くなり、どんどん低下していきます。それで、「クビになるかもしれない」と思っただけで怖くなります。まだクビになっていませんが、恐怖を感じて、ひどいときには病気にまでなるのです。
(続きます)
スマナサーラ長老法話
Patipada1月号 根本仏教講義
「ほんものの恐怖とは?」
(編集:出村佳子)「ほんものの恐怖とは?」
生きとし生けるものが幸せでありますように