2024/07/20

責任と義務「責任を果たす:自由と責任の対立について①」

 

責任を果たす:自由と責任の対立について


今回のテーマは「責任を果たす」ということです。副題は「自由と責任の対立について」です。




そこで問題は、仏教の解脱は究極の自由なんです。何にも依存しない究極の自由です。究極の自由といえば、相対的である存在そのものも乗り越えなくてはいけないことになります。相対が消えたら、人間には概念がないんです。比較する感覚もないんです。ですから涅槃については言葉では語れません。英語で ineffable と言います。涅槃とは何かというと ineffable で、言葉で表現不可能ということです。ですから、「責任と自由」と言うと、言葉の意味は正反対になります。

では責任を放棄することが自由なのでしょうか?

いろいろなことが考えられます。では、話を進めていきます。


責任と義務


「責任」とは、自分自身で、自分の意志で行うものです。それが一般的にいう自己責任です。


「義務」は、他人から与えられて、他人や自分のために行うことです。仕事は他人が与えるのです。それは義務になります。「あーしなさい、こーしなさい」と命令する場合は、命令した人のためか、誰かのためになります。


例えばこのお寺に掃除機をかけてくださいと言われたら、自分のためではなく皆のためになりますから、それは義務です。責任ではありません。「できません」とも言えますから。


子供たちに「しっかり勉強しなさい。夕方四時から六時まで宿題の時間だよ」と母親が命令すると、それは義務になります。子供は「嫌だ」と言うこともできます。でもやったほうがいいんです。勉強するのは誰のためですか? お母さんのためですか? 先生のためですか? 本人のためなんです。

このように、義務とは自分か他人のためになる行為で、他人が指令することです。


結局、この2つは簡単に重なります。例えば、子供が勉強を嫌がっても、勉強は子供の「責任」でもあります。教える側が指令しなければなりませんから「義務」にもなります。だから「義務」と「責任」がダブってしまうのです。


「義務」は断ることもできます。他人に言われたり指令されたりしたら「義務」です。断れる場合もあり、断れない場合もあるのです。


「責任」は他人の指令ではないので、果たさなくてはいけません。誰かが指令したわけではないんです。自分自身がやらなくてはいけないことなんです。それからは逃げられません。


そういうことで、責任と義務という2つのことがあります。これから総括的に「責任」という概念にまとめて話を進めていきます。


責任は増えるもの


責任って面白いんです。いつでも責任の裏に、義務という言葉も隠れているということを憶えておいてください。


責任というのは増えるものです。

生まれると、責任パッケージを持っているのです。生まれてくる赤ちゃんにも責任があります。パッケージを持って生まれてくるんです。

赤ちゃんも自分で生きなくてはいけません。もし重度の未熟児で生まれたら、保育器に入れて、いくらか自立できるまで育てますけど、赤ちゃんは自分でおっぱいを吸わなくてはいけないんです。自分で呼吸しなくてはいけないし、自分で手や足をはちゃめちゃ動かして身体を作らなくてはいけない。いろんなもの握ったり、あれやこれやとやったりして、周りのことを勉強しなくてはいけないんです。いろんな責任があります。そういうパッケージを持って生まれるのです。だいたい赤ちゃんは問題なくパッケージ通りにやります。

ちょっと筋肉が付いてくると、はいはいしたり、立ってみようとしたり、いろんなことをやります。

立つことでも赤ちゃんにとっては大変な仕事です。まったくバランスがない身体で、頭がすごく重いですから、頭を細い首で支えられないんです。だから頭がガクっとなると、立った赤ちゃんがドカンと倒れます。でも赤ちゃんは自分の責任を果たしていますから、誰も赤ちゃんの性格が悪いとは言わないんです。


それから成長するにつれて、責任が増えていきます。ずっと赤ちゃんでいるわけではありません。

大人になる過程で、子供は学校に行って勉強しなければなりません。それだけでなく自分でも課題を考えて、いろんなことをやっています。夏になると昆虫を追いかけたりなど、自分なりに考えてやるのです。


大人になると、自ら進んで責任を増やす人もいます。


責任は増えるだけではなく、減ることもあります。年齢とともに責任が増えるものですが、反対に「もうこれは終わり、これも終わり、これも終わり……」というふうに減っていく責任もあります。


ときどき世界のすべての責任を自分で負っているような錯覚で生きている愚かな人もいます。しかし、病気になって死ぬはめになると、全部責任を放棄して、中止して、死ななくてはいけないんです。その場合は義務も責任も両方、その瞬間で終わるんです。アメリカの大統領でも、病気で倒れた時点で責任も義務も終わります。別の誰かが代わりにやります。自分はそこで止まるんです。義務と責任とはそういうものなのです。


他人に頼むことはできない


義務は頼むことができますが、責任は他人に頼んでやってもらうことはできません。

例えばご飯を食べることや呼吸すること。私はちょっと調子が悪いから誰かやってくださいと頼むことはできません。ですから、責任というものは自分の存在と表裏一体になっているのです。


個が亡くなっても世界には問題ない


そこで、たくさん責任がある人、たくさん義務を抱えている人が亡くなるとどうしますか? 困りますか?


困りません。この世の中でどんな人間が亡くなっても、世界には痛くも痒くもないのです。


イギリスのエリザベス女王が、あと百年、生きられるわけがないでしょう。その方がなくなったからといって英国が滅びることはありません。王室という文化が一日にして消えたということはなく、誰かが次の王になるのです。


このことを憶えておいてください。なぜなら、我々は自分がこれをやらなかったら世界が滅びると思っているんです。

そんなことはありません。例えば、お母さんが赤ちゃんを産んですぐに亡くなる場合もあります。子供を産むと、赤ちゃんを育てることはお母さんの仕事なんです。その能力は自然法則によってお母さんに付いているんです。能力があるからその責任を果たしてくださいという宇宙的な生命の法則なんです。でも、何かの理由でお産中に亡くなる場合もあるし、お産が終わってから病気で亡くなることもあります。

それで赤ちゃんも一緒に死にますか?

死にません。赤ちゃんはお母さんが亡くなっても死にません。そのときは他の誰かがお母さんの責任を担います。その場合は、その人にとって責任が義務に変わるのです。

(続きます)


・・・・・・・・・・・・・・・

法話:スマナサーラ長老

責任を果たす:自由と責任の対立について ➤ 目 次

根本仏教講義 ➤ 目 次

文:出村佳子

・・・・・・・・・・・・・・・