マハーナーマ経
Sotapatthi(ソータパッティ)というのは「預流果になる」という意味で、お釈迦様の時代では、多くの在家の方々が預流果に覚っていました。
預流果に覚ることは、それほど珍しいことではなかったのです。
そこで、多くの人が預流果に覚っていますから、預流果についての理解や解説などに個人差がでてきます。
覚りそのものには差がありませんが、「あなたはどのように理解していますか?」と聞くと、それぞれ表現の仕方や言葉が少々変わったりするのです。
そこで、「預流果というのはこういうものである」ということをいったんまとめたほうがいいのではないかということだろうと思いますが、お釈迦様が教えられたさまざまな実例やデータが、このサンユッタニカーヤにまとめてあるのです。
今回はその中の経典の一つ、預流果のセクションの第三章です。
Ekam samayam bhagava sakkesu viharati
kapilavatthusmim nigrodharame.
ある時、世尊は釈迦国のカピラ城ニグローダラーマに住んでおられました。
カピラワットゥというのは国の首都の名前で、お釈迦様が生まれた故郷です。
Atha kho mahanqmo sakko yena bhagava tenupasankami. Upasankamitva bhagavantam abhivadetva ekamantam nis]di. Ekamantam nisinno kho mahanamo sakko bhagavantam etadavoca:
その時、釈迦族のマハーナーマが世尊を訪ねました。
それから世尊に礼拝し、傍らに座りました。
座ってから、マハーナーマは世尊にこのように告げました。
「世尊よ、このカピラワットゥという街は幸福で,大変豊かな街です。
人口が多く、混雑しています。
街が豊かということは、人口が多いということです。
人口が多いということは、それなりに問題も多いということです。
これは今も昔も同じで、街が経済的に発展すると、そこに人が集中しますから、ごちゃごちゃして、ややこしくなるのです。
それで私は、世尊や親愛なる比丘方と親しく付き合います。
夕方、カピラ城に戻ると、興奮している象に出くわします。
興奮している馬に出くわします。興奮している人に出くわします。
その時、世尊よ、私の心から世尊にたいする気づきがなくなります。
法にたいする気づきもなくなります。
僧団にたいする気づきもなくなります。
そのとき、私はこのように思います。
『もし私がこの瞬間に死んだら、私は何処へ往くのでしょう。
私の死後、どうなるでしょう』と。」
少々、説明しましょう。
インドは現代でも、身動きできないほど混雑している国です。
街に限ったことではなく、田舎でも同じ状態です。
昔のカピラ城も同じでした。
人が大勢いましたから、品物を運ぶために走り回っている人々や、店をたたんで商売道具を荷車にのせ、早足で家に帰る商人などで混乱していたのです。
その上、興奮して管理できない動物たちが道路をあちこちうろついています。
飼われている動物ですが、街で動物たちが興奮して歩いていると、人間にとっては結構迷惑なのです。
日本では経験することがないでしょうが、インドやスリランカでは動物たちが道路を歩いていて、牛は牛の勝手で道路を渡っていますし、車のクラクションを鳴らしても、まったく意味がありません。車が止まって、牛が移動するのを待つしかないのです。
そこで、マハーナーマさんはついさっきまで穏やかな雰囲気の中、心清らかなお釈迦様やお坊様たちと話をし、幸せな気分でいたのに、夕方、街に入ったとたん、環境がガラッと変わってしまい、人の多さと管理不可能な動物たちでごったがえし、頭が混乱したというのです。
今までお釈迦様のことを思い浮かべたり、教えを思い浮かべたり、比丘サンガのことを思い浮かべたりして、たいへん幸せな気分でした。
その気持ちはきれいさっぱりなくなって、心は混乱してしまったのです。
おそらく、興奮した象や馬が暴れている状況なので、怖くなったのでしょう。
踏み潰されたら、一巻の終わりだ」と逃げ回っているマハーナーマの心は、身の安全をはかることで精一杯です。
仏法僧のことを思い浮かべる余裕はないのです。
それでも、象に踏まれたり馬に蹴られたりして、死ぬかもしれません。
このような状況のなかで死んでしまったら、自分の死後、どうなることかと心配したのです。
いま死んだらどうなる?
命拾いしたマハーナーマが、「あのとき死んだら、どうなるのか」と心配した気持ちが、このエピソードでよく分かります。
一般の人が災難に遭遇して命拾いしたならば、おそらく「神仏のご加護で助かった」という気持ちになるでしょう。
しかしお釈迦様の教えに慣れている人の気持ちは違います。
「あのとき死んでしまったら、どうなったことか」と、転生することに恐怖感をおぼえるのです。
混乱した心で死ぬことは不幸です。
恐怖感に陥った心で死ぬことも不幸です。
解脱に達することができなかったなら、せめて清らかな心で死にたいものです。
このように思うことは、仏教徒の特色かもしれません。
清らかな心で死にたいと思う人は、常に心を清らかに保つことに励むのです。
このように励むことは、悪い感情に誘惑されないようにするために、たいへん有効な方法です。
これにたいし一般の人は「絶対、死にません」という前提で生きています。
死ぬかもしれません、という気持ちがあると、一般の人には仕事をすることも、家を建てることも、旅に出ることもできません。何もやる気が起こりません。ですから「死」という単語は一般社会では使用禁止なのです。
人は死ぬのではなく、天国に召されると言うのです。または他界すると。これは眼を見張るほど明るい言葉です。
それほど良い状況であるならば、みな宝くじが当たったような気分で死を迎えればいいのに、現実は正反対です。極力、死を避けるのです。死について考えることも避けるのです。
私たちはいろんなことから逃げまくって生活しています。切羽詰ったときには、夜逃げまでします。
いくら逃げ上手であったとしても、「死」からは絶対に逃げられません。
一般人は「死」という現実を、無いことにするのです。それは正しい対応ではありません。
逃げることができないというのは、必ずその現実に遭遇するという意味です
。それなら、遭遇したらどのように対応するべきかと構えていたほうがいいのです。
人はいつ、どこで、どのように死ぬのか、さっぱり分かりません。
それならば、常に死に出会う構えが必要です。
仏教徒は、死を嫌うことも、死から逃げようとすることもしません。
その代わりに、構えるのです。その方法はいたって簡単です。
「私は今の瞬間、今の心境で死んでしまったら、大丈夫でしょうか?」
と自分の心を観るだけです。
「私は今、心置きなく死ねるでしょうか?」
と、一人一人、問いかけてみてはいかがでしょうか。
そう問いかけてみると、構えがあるかないかを発見します。
いろいろあるでしょう。子供が独立するまで死ねないとか、娘の花嫁姿を見るまで死ねない、孫の顔を見るまで死ねない、などなど思い浮かぶでしょう。
それは構えがない、ということです。
しかし、期待が叶ったところで、心置きなく死ねるのかと言えば、そうではありません。
娘の花嫁姿を見たとしても、次に「孫の顔が見たい」など新しい期待が生まれてきます。
期待には終わりがありません。期待や希望がいくらあっても、人はあっけなく死ぬのです。
死ぬときに、欲のない、怒りのない、無数の希望にたいする執着のない明るい心なら、文句はないでしょう。
そのような心で、日常を過ごさなくてはなりません。
ですから、「今なら心置きなく死ねます」と言える人の明るさには、誰もかなわないのです。
ここまでで何が勉強できるかといいますと、「私たちはいつ死ぬかわかりませんから、常に気をつけていたほうがいい」ということです。
怒りっぽくて、嫉妬ばかりして、人を憎んで、そうやって四六時中いるべきではないのです。
たまたま怒ったとしても、その怒りは即座に消して、善い心でいなければなりません。
なぜかというと、いつ死ぬか分からないからです。
汚い心で死を迎え、次に幸福なところに生まれ変わるということは、理屈に合いません。
死ぬときにカンカンに怒って、怒りの感情で染まっている人が天国に行くということは、理屈が成り立たないのです。
私たちは弱いものですから、いきなり怒ったり、嫉妬したりすることも、しょっちゅうあるでしょう。
だからといって、その感情を引きずるべきではありません。
「はい、もう終わった。いつ死ぬかわかりませんから、清らかな心でいなくてはならない」
と、常に心を制御して管理しなければならないのです。
(続きます)