2012/09/05

与えることの喜び 5

仏教の会計学「損得勘定の智慧 4」の続き


到達点は「与えるだけ」


前回説明した五つの勘定の仕方のうち、五番目の「与えるだけ」の道について少々付け加えておきたいと思います。この与えるだけという生き方は悟った人の生き方だから自分には関係がない、といって無視してはいけません。これは私たち誰もが到達すべき最終点であり、そこに行き着くまで努力しなければならないのです。仏教では「与えることは善行為の始まりである」と説いています。善行為をすれば因果法則によって必ず幸福になれるのです。ですから自分の心にある「欲しい、貰いたい」という暗くて重い欲望を少しずつ減らしてゆき「与える」ということを実践してみてください。心は次第に明るく軽やかになるでしょう。これが幸福に生きるための正しい勘定の方法なのです。

価値はどうやって成り立つか?


何かを与えるとき「価値」はどのようにして決まるのでしょうか? 与える人が決めるのですか、それとも受ける人が決めるのですか? それは受ける側で決まるのです。たとえば母親が自分のネックレスを娘にあげるとしましょう。「これは結婚のときにプレゼントされた大事なネックレスで、大変高価なものです」と、自分で価値を入れても意味がありません。貰う側の娘が価値を入れるのです。「このネックレスはクラシックで、おしゃれだ。すごく気に入った」と喜ぶなら、それには価値があるということになりますし、逆に「これは太くてダサい。誰もこんなものは付けないよ」と喜ばないなら、それには価値がないということになるのです。
また、絵画や陶芸などの芸術品を売買するときにはオークションを行うことがあります。そこでは買う側が価値を入れて値段を決めるのであって、作品自体には何の価値もありません。たとえば、ある絵画を見てAさんは「百万円で買う」と言うかもしれませんし、Bさんは「千円でも買わない」と言うかもしれません。このように価値というものは買う側、受ける側で成り立つのです。いくら素晴らしいものでも高価なものでも、貰う人が必要としなかったり興味を示さないなら、それには何の価値もないのです。

板切れ一枚の価値


普段は何の役にも立たない、価値のない板切れでも、場合によっては巨大な価値を持つこともあります。お釈迦さまの前世物語として有名な「ジャータカ」には次のようなエピソードがあります。ご紹介いたしましょう。

菩薩は、ある商人として生まれました。大金を儲けなくてはならないということで、知人といっしょに舟に乗って商売に出かけました。その途中、ひどい嵐に出会い遭難してしまったのです。頭が鋭い菩薩は舟の中にある荷物をサッサと捨てて、舟から板を剥ぎ取り、それを持って海に飛び込みました。そして板の上に身体を乗せて水の流れに流されていたのです。そうすると、もう一人の男が海に流されているのが見えました。男は何もつかまるものを持っていません。菩薩は「この人はもうすぐ溺れて死ぬだろう。俗世間で儲けようとすると、こういう災難にも遭うのだ。私は修行中の身である。商売をしているのは生活するためであって、私の本職は波羅蜜を完成して悟ることだ。今は自分の波羅蜜を完成するチャンスだ。この人を助けよう。しかしこの板切れ一枚に二人は乗れない。板をあげれば自分が溺れて死んでしまう。この人が今までに何か私を助けてくれたことがあれば、それを理由に、この板をあげられるのだが」と考えて、菩薩は過去を振り返ってみました。しかしこの男は何も菩薩にしてくれたことがないのです。ただ、一つだけこのような出来事を思い出しました。

以前、この男が旅に出かけたとき、菩薩もいっしょに行きました。男は三人分ほどの弁当を持っていましたが、菩薩は突然出かけたので何も持っていませんでした。しばらく歩いて食事の時間になると、男は自分の弁当を開けて一人でパクパクと食べはじめました。菩薩が弁当を持っていないのを知っているにもかかわらず、何も分けてあげません。一人分だけ食べて残りはとっておき「では、行くぞ」と歩きはじめるのです。普通なら弁当を持っている人が持っていない人に分けてあげるでしょう。しかしこの男は菩薩に何もあげません。しばらく歩いて、また食事の時間になると、そのときも自分の分だけ食べて残りはとっておくのです。菩薩は喉がカラカラに渇き、腹も空いていました。ところで、インドでは食後に口直しとして小さな葉っぱを噛む習慣があります。葉っぱに何かを付けて噛むと、口の中がスッキリして爽やかな気分になるのです。脳にも信号が行きますから頭もしっかりします。そこで菩薩は、葉っぱはお金がかかるものではないから「その葉っぱを一枚くれませんか」とお願いしました。すると男は「葉っぱ一枚」と嫌な顔をして、一枚あげるのではなく、葉っぱを半分に切ってそれをあげたのです。男があげたのは葉っぱの半分だけ。そのぐらいケチでわがままな人だったのです。

そこで、いま海で遭難しているときに、菩薩はこのことを思い出しました。「この人は以前、私に葉っぱの半分をくれたことがある」と。そして男に「あなたはろくに泳ぐことでもできないようですから、やがて溺れて死ぬでしょう。私は過去、あなたにお世話になったことがあります。以前、いっしょに商売に出かけたとき、あなたは葉っぱの半分を私にくれました。ですから私は恩返しをしなくてはなりません。これを使ってください」と言って、自分が乗っていた板切れを男に差し出したのです。

このような崇高な行為ができるのは菩薩であって、一般の私たちにはとうていできることではありません。普通、板切れというものには何の価値もありませんが、このエピソードのように、海の中で遭難しているときの価値はどうかと考えますと、それは命と同等の価値があるのです。正しく計算するなら、男は一円もしない板切れを貰ったのではありません。「命」を貰ったのです。

このように価値というものは、貰う側で成り立つのであり、時と場合によって大きく異なってくるのです。

個人的な話しになりますが、ときどきスリランカから「お金を送ってほしい」という手紙が私のところに届きます。ある人は「家を直したいがお金がないから十万円ほど送ってくれないか」と言うのです。家を直したいというのは、ただ格好つけて贅沢に暮らすためのものでしょう。その人に十万円送ってあげたとしてもほとんど価値がないと思います。だってわざわざお金をかけて家を直さなくても、今のままで十分に生活できるのですから。また、ある人は「自分は学生で勉強しているが授業料が払えなくなってしまった」とか「教科書を買いたいから一万円送ってほしい」と書いてあるとします。その場合、私はすぐにお金を送ってあげるのです。なぜかというと学生にとって勉強や本はすごく役に立つものです。知識を学び、技術を習得し、仕事を得て、一生食べていけるようになったなら、その子は一生自立して暮らせます。それには一生分の価値があるのです。このように、価値というものは受ける側の使う目的によっても異なるのです。

与える喜びを味わう


私たちは人に何かモノをあげた後に「損した」とか「もったいない」という惜しい気持ちが生まれることがあります。なぜこのような感情が生まれるのかというと、たとえば自分の部屋にテレビがあるとしましょう。でも仕事が忙しくてなかなか見る暇がありません。そこで友だちが「そのテレビをくれないか。代わりにソファーをあげるから」と言いました。友だちがすごく欲しがっているので「しょうがないな、持って行け」と言います。でも後になって「ああ、損した」と後悔する可能性もあります。ソファーは別にあってもなくてもいいものですが、テレビは毎日見なくても、ときどきは見ますから、自分にはまだ必要なものなのです。この「まだ自分に必要」というときに「損した」という感情が出てくるのです。

しかし、価値というものは受ける側で成り立つのですから、実際、与える側には損も得も関係ありません。それなのに、いったん手放したものに執着して悔やんだりすると、それは悩みの種になって苦しみが増えるだけです。友だちが喜んでいるなら、それでよいのではないでしょうか。世の中は「与えて得る」というギブ・アンド・テイクのシステムで成り立っているのですから、何らかの形で自分が与えなくてはならないのです。それならば、悔やんだり悩んだりしないで「人の役に立ってよかった」と与えた喜びを味わい、充実感を感じながら生きる方が「得」なのではないでしょうか。
(続きます)
アルボムッレ・スマナサーラ長老法話
文:出村佳子

充実感こそ最高の財産


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月例講演会(浅草かやの木会館)での講義を編集しました。

2012/09/04

仏教の会計学 4



前回は、仏教とは人生を勘定する学問、つまり「人生の会計学」であり、これを学ぶことによって私たちは財政的にも精神的にも豊かに生きることができる、というところまでお話し致しました。今回から具体的にその内容を学んでみましょう。概要は次のとおりです。

一.何を勘定するか
二.勘定の仕方
三.正しい見積書と誤算
四.損を避ける方法
五.倒産しないための秘訣

一.何を勘定するか
勘定するといっても私たちは何を勘定すればよいのでしょうか。大きく分けると四つあります。

・物(金銭、財産、物品など) 

まず、物です。これは皆さん日常生活の中で普通にやっていることでしょう。たとえば電化製品を買うなら「A店よりB店の方が安くてサービスがいいからB店で買おう」とか、海外旅行に行くなら「正月は旅費が高いからオフシーズンに行こう」というように、物やお金の損得を勘定することです。これはやらなければ損をします。

・知識・情報 

次に知識と情報です。間違った情報や不必要な知識を入れると、人は堕落します。現代社会では、テレビ、新聞、ラジオ、インターネットなどを通して、誰でも簡単に情報を入手することが可能になりました。しかしその膨大な情報を、何の勘定もせずにそのまま鵜呑みにするのは大変危険なことです。マスコミはありのままの事実を客観的に報道するのではなく、政治的、経済的意図に影響されて、極端に歪曲したデータを流したり、一部の情報をカットすることもあるからです。だからといってマスコミだけが悪いわけではありません。情報を受ける私たちも悪いのです。つまり外から入ってきた情報を無批判で受け入れるという、無知で怠慢な私たちの態度にも問題があるということです。

そこでお釈迦さまは「各自が、入ってくる情報を正しく勘定しなさい」と教えられました。自分の目や耳に入ってくる情報は「正しいものか、正しくないものか」「真面目に考慮すべきものか、無視すべきものか」を見分けなさいと。自分にとって有害な情報は受け入れないようにし、有益な情報なら取り入れて、よく学ぶことが大切なのです。


知識についても、何でも知ればいいというわけではありません。知ってはいけない知識もあります。仏教では、毒や武器を製造したり商売にする知識は断固として禁止しています。なぜなら、この種の知識は人の精神をおかしくさせ、他人も自分も害することになりますから。

・人間関係 

次に、人間関係です。仏教では人間関係について厳しく言っています。人とつきあうとき、相手は誰でもいいというわけではありません。相手が道徳を守らない愚か者だったら、その人とは距離を置いてつきあうか、離れた方がいいでしょう。なぜなら愚か者と親しくすると、簡単に自分も堕落してしまうからです。他方、智慧があって道徳的な人とは、しっかり仲良くすべきです。

世の中には「私は人づきあいが広い」とか「友だちが大勢いる」と自慢している人がいますが、重要なのはつきあう人の数の多さではなく、相手がどのような人かということです。道徳的で立派な人がいるなら、つきあう人はその人一人で十分なのです。

・人格の向上・進化に必要な道徳と真理

最後は、人格の向上・進化です。私たちは日々の生活の中で「善い人間になる」ように常に心を向上させ、進化させなくてはなりません。そのためには「これをやると進化する」「これをやると退化する」というように、自分の行動を勘定しなければならないのです。その基本となるものが道徳です。道徳を守ると人格はどんどん向上しますし、守らなければ堕落していきます。

それから、真理を知ると人は進化して悟れるのです。最終的に私たちは、悟りを得るところまで勘定しなくてはならないのです。

勘定の仕方

さて、何を勘定すればいいかということはこれでおわかりになったと思います。それから、もう一つ考えておかなければならないポイントがあります。皆さんはこの四つの項目の中で何を優先して生活していますか? お金ですか? 人づきあいですか? 情報・知識ですか? 道徳・真理ですか? どれも生きる上では必要なものですが、何を優先すべきか、何を優先すれば幸福になれるか、という優先順を知っておくことも大切です。
それでは先ず、私たちが普段からやっている俗世間の優先順を見てみましょう。

・「俗世間」の優先順
1、物
2、人間関係
3、知識・情報
4、人格の向上・進化(道徳と真理)


私たちが一番重要視しているものは、物です。その中でも特に、食べることと飲むことを大事にしています。飲食をしなければ生命を維持することができませんから、これは当然のことでしょう。次は、家族や友人、会社などでの人間関係です。そしてその次に、仕事をするためや教養を身につけるために、知識や情報を必要とします。そして最後に来るのが、道徳・真理です。私たちは実際のところ、道徳や真理を大事にしていません。嘘をついたり、帳簿をごまかしたり、不正を働いてまでも、より多くの金銭や地位、権力などを獲得しようとしているのです。欲望にあやつられて、道徳は後回しにするか、あるいはまったく無関心の状態で生きています。これでは幸福になれるはずがありません。では、仏教はどのような優先順をつけているのでしょうか。

・「仏教」の優先順

1、人格の向上・進化(道徳と真理)
2、人間関係
3、知識・情報
4、物

私たちが幸福になるために最優先すべきものは、人格の向上と進化です。皆さんはお金や物の勘定には慣れているでしょうが、それよりも大事なのは、人格者になるために、善い立派な人間になるために、道徳や真理を勘定することなのです。その次に、人間関係です。悪いグループに入らないで、善いグループに入るように気をつけなければなりません。それから知識です。知識があるのは善いことですが、それほど高度な知識がなくても生きていられるでしょう。そして最後に、お金、家、車、装飾品などの物です。

仏教では、このような優先順をつけています。もし幸福を望むなら、道徳や真理を最優先にする、この仏教的な順番を学ぶべきでしょう。

得ること・与えること


次に、「勘定の仕方」について勉強してみましょう。これは次の五つのタイプに分けられます。


1、得たから与える
2、得るために与える
3、得られるなら与える
4、要らないから与える
5、与える

一番目の「得たから与える」というのは、人に何か貰ったからお返しします、という世間任せ的な生き方です。これは周りの人がいつでも自分のことを心配して、必要なものを与えてくれなければなりませんから、そういう人がいない社会では生活できないということになります。
二番目の「得るために与える」というのは狡賢いでしょうし、三番目の「得られるなら与える」は態度が大きい。四番目の「要らないから与える」は、世界をゴミ箱のように思っているのです。
そして五番目の「与える」だけというのは、賢者の世界です。賢者には「得たい」という気持ちがありません。「与える」ことしか考えていないのです。

そこで、はじめの四つはどれも「自分が何かを貰いたい」という気持ちが先立っていることがおわかりになると思います。しかし「貰いたい」という目的だけで生きていると、数限りない苦しみが生まれ、不幸を招くことになります。ですからこれらの四つは良い方法だとは言えません。それから五番目の「与える」だけの生き方を、いきなりやりなさいと言われても、私たちはギブ・アンド・テイクの世界で生きているのですから、それは無理な話です。では仏教はどのような方法を薦めているのでしょうか。

与えてから得る


二番目の「得るために与える」を与えてから得るというやり方に改良するのです。つまり、人や社会から何か「得よう、貰おう」とするのではなく、先に自分から「与える」のです。これが間違いのない正しい方法なのです。
(続きます)
アルボムッレ・スマナサーラ長老法話
文:出村佳子

損得勘定の智慧 スマナサーラ長老法話 文責 出村佳子