2012/09/06

幸福の見積書 6

与えることの喜び「損得勘定の智慧5」の続き


何を、誰に、与えるか

人にものを与えるとき、私たちはさまざまなものを与えることができます。お金を持っている人は、それを必要としている人にあげられますし、知識のある人は、役に立つ情報や知識を教えることができます。電車の中で座席を譲ることも与えることですし、町に落ちているゴミを拾ったり掃除をしたりするなら、それはきれいな環境を与えたことになります。健康な人は献血をすることもできるでしょう。病気で体を動かせない人でも、面倒を見てくれる人に対して優しい言葉や気遣いの言葉をかけることができます。これらはすべて与えることなのです。ですから「与える」という善行為は、裕福な金持ちだけでなく、子供でも、お年寄りでも、健康な人でも、病気の人でも、誰でもできる行為なのです。
次に、それを「誰にあげるか」ということも考えなければなりません。自分が与えたいからといって、むやみに誰にでもあげていいというわけではないのです。たとえば砂糖がたっぷり入った甘いケーキを、糖尿病を患っている人にあげても仕方がないでしょう。相手にとっては大変な迷惑です。それでは与えたことになりません。ですから何を与えるにせよ、相手に必要なもの、役に立つものを与えるべきです。この点に、よく気をつけてください。

与えるものは最大に

それから与えるときには、自分にできる最大のものを与えることが大切です。物惜しみをしてはいけません。たとえば人に何か仕事を頼まれたとしましょう。頼まれるということは自分にできるということですから、そのときはいい加減で中途半端にやったり、手を抜いたりしないで、精一杯のことをやってあげるのです。いちばん良いのは、相手が期待している以上のことを行うことでしょう。そうすれば相手は「あなたに頼んで本当によかった!」と喜んで、満足してくれますし、自分も「役に立ててよかった」と充実感を感じることができるのです。
他方、得るものの方は「適量」でいいのです。最大ではありません。なぜなら「得る」ということは「欲」と同じで際限が無いからです。たとえば、いくらお金が欲しいですかと聞かれると、皆さんはどうお答えになりますか? お金が無いときは一万円でいいと言うかもしれません。しかし一万円が手に入ると、今度は二万円、五万円、十万円、百万円……と、どんどん膨らんでゆくのです。結局いくらあっても「もうちょっと欲しい」と望むことになるでしょう。欲にはきりがありません。止まることなくどんどん膨らんでゆきます。しかし不幸なことに、自分が欲するものをすべて獲得するのは不可能です。また、たとえ獲得しても、それは一時的なものですから存続しません。この「欲しいものが手に入らない」ということから生まれる不満感で、私たちはずっと苦しみ続けるのです。
そこで仏教は「得るものは適量」ということを教えています。無制限に「いくらでも欲しい」と考えるのではなく、「自分が幸せに生きるためにはこのぐらいで充分」という適量を計算し、知っておくことが大事なのです。

慢性的受難症

「受難症」という病気があります。現代医学では未だにこの病気を発見していませんが、お釈迦さまは今から約二千六百年も前に、すでに発見されていました。受難症とは仏教で言う「苦」のことです。なぜ私たちは苦しんでいるのかと言いますと、それは少量しか与えていないのに多くのものを得たいと期待しているからです。ろくに仕事をしていないのに「こんな安い給料ではやっていけない、給料をあげてくれ」とか「昇進させてほしい」と文句を言うでしょう。これは受難症です。こう言う人たちに逆にお聞きしたいのですが、あなたはどのぐらい仕事をしていますか、どのぐらい会社の利益に貢献しているのですか、と。自分は少ししか与えていないのに、会社から多くのものを貰おうと期待しても、それは所詮無理な話です。このような不平不満の性格では、一生、苦しむことになるでしょう。
そこで仏教では、俗世間の考え方とは正反対の「与えるものは最大に、得るものは適量を」ということを教えています。これを実践することによって受難症という苦しみが消滅し、満足という幸福が得られるのです。

足るを知る

ある日、お釈迦さまは出家者に、このように教えられました。「病気になったら比丘たちは薬として牛の尿を飲んでください。それが適量です、満足しなさい。もしどなたかに塗り薬や飲み薬を貰ったなら、あなたは余計に得をしているのです」と。出家者は病気になったとき、名医に診て欲しいとか、良く効く薬が欲しいなど、わがままを言ってはなりません。牛の尿で充分なのです。お釈迦さまがそう教えられたのですから、お釈迦さまに対して敬意を払って飲めば、それで元気になると思います。ただ、医学が発展した日本では化学薬品は山ほどあるのに、牛の尿は手に入らないという状況になっていますが―― 。
それから衣についてお釈迦さまは「その辺に捨ててある布切れの縫い合わせで充分です。それで満足しなさい。もし誰かが布を一枚くれたなら、あなたは大変な得をしています」と言われました。食べものについても「托鉢に出かけたとき、信者さんが残りものや要らないものを鉢に入れてくれたなら、それで充分です。もし食事をつくってくれたなら、あなたは大変な得をしているのです」と。住む処についても「枝や葉を屋根にして、木の下で寝ればそれで充分です。屋根のついた家に住むというのは大変なことです」とおっしゃいました。
要するに、お釈迦さまは「必要最小限の生活で満足しなさい」と教えられているのです。これは在家の方も同じです。私たちが「最小限」という限度を知らないかぎり、受難症という病気は治りません。いくらあっても「足りない」と不満を感じ、苦しむことになるのです。
そこで、最小限のもので満足できるように心を育てたなら、他人からほんの少し何かを貰っただけで、楽しい気分になれるのです。不平不満もたちまち吹っ飛んでしまいます。これで人生を楽に過ごすことができるのです

正しい見積書と誤算

幸福の見積書

さて、これまで述べてきたことをまとめながら「幸福の見積書」を作成してみましょう。ポイントは、自分が貰うことでなく、与えることを念頭に置いておくことです。先ず「自分は何を与えることができるか」と考えてください。物でも、お金でも、才能でも、労力による奉仕でも、何でもよいのです。自分が持っているものや出来ることなど、与えられるものを見つけてください。そして次に、それを必要としている人に与えるのです。でたらめに誰にでもあげればいいというわけではありません。相手を選択すべきです。これは誰にとって最大に有効か、役に立つか、ということを考えて、そちらに与えるのです。そして、得るものの方は「適量」というところで満足するのです。これで幸福の見積書は完成です。あとはこれを実践すればいいのです。見積書を作っただけでは幸福になれません。実践を通して初めて私たちは幸福に生きることができるのです。
反対に、幸福の見積書とは逆の行為をしていると、誤算が生じ、苦しみの人生を送ることになります。つまり自分からは何も与えない、貰うことばかり考える、要らないという人に対して一方的に、強引に押しつける、得ているものに満足せず「足りない、足りない」と言って不平不満を抱くことです。

豊かさの悩み

「幸福の見積書」に従って生活していますと、たいていの場合、自分が思っているよりも多くのものが入ってくるものです。つまり仏教的に生きているなら「私は一万円でよかったのに五万円も貰ってしまった、どうしようか」とか「こんなにくれなくてもいいのに」と、貰った給料の一部を返したくなるような、そんな気持ちになるのです。皆さんはこのような豊かさの悩みを味わったことがありますか? 普通は「残業までしたのに一万円しか貰えなかった、やってられない」などと愚痴をこぼすでしょう。これは俗世間の価値観で生きているからです。仏教は、このような不満の状態を逆転させて、満足だけの生き方を教えているのです。そのためには、先ほど作成した「幸福の見積書」を実践することです。
(続きます)
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アルボムッレ・スマナサーラ長老法話
文:出村佳子

2012/09/05

与えることの喜び 5

仏教の会計学「損得勘定の智慧 4」の続き


到達点は「与えるだけ」


前回説明した五つの勘定の仕方のうち、五番目の「与えるだけ」の道について少々付け加えておきたいと思います。この与えるだけという生き方は悟った人の生き方だから自分には関係がない、といって無視してはいけません。これは私たち誰もが到達すべき最終点であり、そこに行き着くまで努力しなければならないのです。仏教では「与えることは善行為の始まりである」と説いています。善行為をすれば因果法則によって必ず幸福になれるのです。ですから自分の心にある「欲しい、貰いたい」という暗くて重い欲望を少しずつ減らしてゆき「与える」ということを実践してみてください。心は次第に明るく軽やかになるでしょう。これが幸福に生きるための正しい勘定の方法なのです。

価値はどうやって成り立つか?


何かを与えるとき「価値」はどのようにして決まるのでしょうか? 与える人が決めるのですか、それとも受ける人が決めるのですか? それは受ける側で決まるのです。たとえば母親が自分のネックレスを娘にあげるとしましょう。「これは結婚のときにプレゼントされた大事なネックレスで、大変高価なものです」と、自分で価値を入れても意味がありません。貰う側の娘が価値を入れるのです。「このネックレスはクラシックで、おしゃれだ。すごく気に入った」と喜ぶなら、それには価値があるということになりますし、逆に「これは太くてダサい。誰もこんなものは付けないよ」と喜ばないなら、それには価値がないということになるのです。
また、絵画や陶芸などの芸術品を売買するときにはオークションを行うことがあります。そこでは買う側が価値を入れて値段を決めるのであって、作品自体には何の価値もありません。たとえば、ある絵画を見てAさんは「百万円で買う」と言うかもしれませんし、Bさんは「千円でも買わない」と言うかもしれません。このように価値というものは買う側、受ける側で成り立つのです。いくら素晴らしいものでも高価なものでも、貰う人が必要としなかったり興味を示さないなら、それには何の価値もないのです。

板切れ一枚の価値


普段は何の役にも立たない、価値のない板切れでも、場合によっては巨大な価値を持つこともあります。お釈迦さまの前世物語として有名な「ジャータカ」には次のようなエピソードがあります。ご紹介いたしましょう。

菩薩は、ある商人として生まれました。大金を儲けなくてはならないということで、知人といっしょに舟に乗って商売に出かけました。その途中、ひどい嵐に出会い遭難してしまったのです。頭が鋭い菩薩は舟の中にある荷物をサッサと捨てて、舟から板を剥ぎ取り、それを持って海に飛び込みました。そして板の上に身体を乗せて水の流れに流されていたのです。そうすると、もう一人の男が海に流されているのが見えました。男は何もつかまるものを持っていません。菩薩は「この人はもうすぐ溺れて死ぬだろう。俗世間で儲けようとすると、こういう災難にも遭うのだ。私は修行中の身である。商売をしているのは生活するためであって、私の本職は波羅蜜を完成して悟ることだ。今は自分の波羅蜜を完成するチャンスだ。この人を助けよう。しかしこの板切れ一枚に二人は乗れない。板をあげれば自分が溺れて死んでしまう。この人が今までに何か私を助けてくれたことがあれば、それを理由に、この板をあげられるのだが」と考えて、菩薩は過去を振り返ってみました。しかしこの男は何も菩薩にしてくれたことがないのです。ただ、一つだけこのような出来事を思い出しました。

以前、この男が旅に出かけたとき、菩薩もいっしょに行きました。男は三人分ほどの弁当を持っていましたが、菩薩は突然出かけたので何も持っていませんでした。しばらく歩いて食事の時間になると、男は自分の弁当を開けて一人でパクパクと食べはじめました。菩薩が弁当を持っていないのを知っているにもかかわらず、何も分けてあげません。一人分だけ食べて残りはとっておき「では、行くぞ」と歩きはじめるのです。普通なら弁当を持っている人が持っていない人に分けてあげるでしょう。しかしこの男は菩薩に何もあげません。しばらく歩いて、また食事の時間になると、そのときも自分の分だけ食べて残りはとっておくのです。菩薩は喉がカラカラに渇き、腹も空いていました。ところで、インドでは食後に口直しとして小さな葉っぱを噛む習慣があります。葉っぱに何かを付けて噛むと、口の中がスッキリして爽やかな気分になるのです。脳にも信号が行きますから頭もしっかりします。そこで菩薩は、葉っぱはお金がかかるものではないから「その葉っぱを一枚くれませんか」とお願いしました。すると男は「葉っぱ一枚」と嫌な顔をして、一枚あげるのではなく、葉っぱを半分に切ってそれをあげたのです。男があげたのは葉っぱの半分だけ。そのぐらいケチでわがままな人だったのです。

そこで、いま海で遭難しているときに、菩薩はこのことを思い出しました。「この人は以前、私に葉っぱの半分をくれたことがある」と。そして男に「あなたはろくに泳ぐことでもできないようですから、やがて溺れて死ぬでしょう。私は過去、あなたにお世話になったことがあります。以前、いっしょに商売に出かけたとき、あなたは葉っぱの半分を私にくれました。ですから私は恩返しをしなくてはなりません。これを使ってください」と言って、自分が乗っていた板切れを男に差し出したのです。

このような崇高な行為ができるのは菩薩であって、一般の私たちにはとうていできることではありません。普通、板切れというものには何の価値もありませんが、このエピソードのように、海の中で遭難しているときの価値はどうかと考えますと、それは命と同等の価値があるのです。正しく計算するなら、男は一円もしない板切れを貰ったのではありません。「命」を貰ったのです。

このように価値というものは、貰う側で成り立つのであり、時と場合によって大きく異なってくるのです。

個人的な話しになりますが、ときどきスリランカから「お金を送ってほしい」という手紙が私のところに届きます。ある人は「家を直したいがお金がないから十万円ほど送ってくれないか」と言うのです。家を直したいというのは、ただ格好つけて贅沢に暮らすためのものでしょう。その人に十万円送ってあげたとしてもほとんど価値がないと思います。だってわざわざお金をかけて家を直さなくても、今のままで十分に生活できるのですから。また、ある人は「自分は学生で勉強しているが授業料が払えなくなってしまった」とか「教科書を買いたいから一万円送ってほしい」と書いてあるとします。その場合、私はすぐにお金を送ってあげるのです。なぜかというと学生にとって勉強や本はすごく役に立つものです。知識を学び、技術を習得し、仕事を得て、一生食べていけるようになったなら、その子は一生自立して暮らせます。それには一生分の価値があるのです。このように、価値というものは受ける側の使う目的によっても異なるのです。

与える喜びを味わう


私たちは人に何かモノをあげた後に「損した」とか「もったいない」という惜しい気持ちが生まれることがあります。なぜこのような感情が生まれるのかというと、たとえば自分の部屋にテレビがあるとしましょう。でも仕事が忙しくてなかなか見る暇がありません。そこで友だちが「そのテレビをくれないか。代わりにソファーをあげるから」と言いました。友だちがすごく欲しがっているので「しょうがないな、持って行け」と言います。でも後になって「ああ、損した」と後悔する可能性もあります。ソファーは別にあってもなくてもいいものですが、テレビは毎日見なくても、ときどきは見ますから、自分にはまだ必要なものなのです。この「まだ自分に必要」というときに「損した」という感情が出てくるのです。

しかし、価値というものは受ける側で成り立つのですから、実際、与える側には損も得も関係ありません。それなのに、いったん手放したものに執着して悔やんだりすると、それは悩みの種になって苦しみが増えるだけです。友だちが喜んでいるなら、それでよいのではないでしょうか。世の中は「与えて得る」というギブ・アンド・テイクのシステムで成り立っているのですから、何らかの形で自分が与えなくてはならないのです。それならば、悔やんだり悩んだりしないで「人の役に立ってよかった」と与えた喜びを味わい、充実感を感じながら生きる方が「得」なのではないでしょうか。
(続きます)
アルボムッレ・スマナサーラ長老法話
文:出村佳子