3月6日開催「朝のお経と慈悲の瞑想」の会のあと、
「慈悲の瞑想の文言が違うのはなぜでしょうか?」というご質問をいただきました。
おそらく同じような疑問を持たれた方もいらっしゃると思い、シェアさせていただきます。
3月6日に実践したのは、北米で主に実践されている慈悲の瞑想の一部です。(グナラタナ長老も使われ著書で紹介しています)
チャンディマ長老のご回答です。
国によって言葉は違いますし、慈しみの表現の仕方は人それぞれです。言葉はそれほど重要ではないんですね。言葉の奥のものが大事なんです。
慈悲の瞑想によって何を育てるのかというと、「慈悲の心」です。「幸せでいたい」という想いは、みな共通して持っているものです。ですから自分にも他者にも「悩み苦しみなく、幸せでありますように」という想いや思考を育てていくんです。
言葉は表面的なものですから、言葉にあまり引っ掛かる必要はありません。
自分の心に慈悲が育つよう、やすらぎを感じるような言葉を見つけて、その想いを持って瞑想したり、日常の生活を送ることが大切なんです。
バンテ・チャンディマ
生きとし生けるものが幸せでありますように