(「現見経」増支部六集四十七)
現見(現証)の定義を求める
今回取り上げる経典は「サンディッティカ・スッタ Sandiṭṭhika Sutta」です。パーリ経蔵の増支部に同じタイトルの経典が二つ収録されていますが、内容はほとんど同じです。
サンディッティカ Sandiṭṭhika というパーリ語の日本訳は「現見」「現証」です。Sandiṭṭhika というのは科学と同じで、「すぐに結果を見て確かめられる」という意味なのです。これは他の宗教に対して、仏教がいかに勝れているか、レベルが違うか、ということを強調した言葉でもあります。実際、宗教というのは「すぐに結果を見られる」どころか、ほとんど「死後どうなるのか?」という話ばかりなのです。そうすると信仰するしかないので、微塵も科学性がなくなってしまう。「死後、天国に迎え入れられます」と言った途端、それは科学の管轄ではなくなるのです。科学実験というのは目の前で結果が出るからこそ、それが真理であると認められます。それと同じく、ブッダの教えもsandiṭṭhika という特色を持っていて、今ここで結果を確かめられる教えなのだと宣言しているのです。
そこで、sandiṭṭhika(現証)とはどういう意味なのかと考えると、あれこれと疑問が起きる場合があるのです。仏教を宗教だと誤解している方々が、「目の前で解脱に達するということですか?」「今すぐ三分以内で悟れますか?」と辛口で意地悪な質問を投げかけることも可能です。
そのように問われたら、お釈迦様は質問に即して証拠を出してみせました。この経典の場合、質問者は「現証の意味は何でしょうか?」と定義を示すように求めているのです。
パーリ語の最初の文章を読みます。
Atha kho moḷiyasīvako paribbājako yena bhagavā tenupasaṅkami; upasaṅkamitvā bhagavatā saddhiṃ sammodi. Sammodanīyaṃ kathaṃ sāraṇīyaṃ vītisāretvā ekamantaṃ nisīdi. Ekamantaṃ nisinno kho moḷiyasīvako paribbājako bhagavantaṃ etadavoca –‘‘‘sandiṭṭhiko dhammo, sandiṭṭhiko dhammo’ti, bhante, vuccati. Kittāvatā nu kho, bhante, sandiṭṭhiko dhammo hoti akāliko ehipassiko opaneyyiko paccattaṃ veditabbo viññūhī’’ti?
最後の文章は、ほとんどの方は暗記していると思います。「法の六徳」として我々が毎日唱えているものです。
次に日本語訳です。
ときに遍歴行者モーリヤシーヴァカが世尊へ近づいた。近づいて世尊と挨拶をした。喜ばしき慶賀の言葉を交わして一方へ坐った。一方へ坐った遍歴行者モーリヤシーヴァカは世尊へこう言った。
「尊者よ『現証(現見)の法、現証の法』といわれます。尊者よ、いったいどれだけをもって現証の、即時の、来見されるべき、智者たちによって各自で知られるべき法があるのでしょうか?」
これは、現代的に言えば「定義してください」ということです。
Svākkhātto bhagavatā dhammo Sandiṭṭiko Akāliko Ehipassiko Opanayiko Paccattaṃ veditabbo viññūhī ti. これを定義してくださいと。
これは立派な質問なのです。自分たちで勝手に妄想して仏教を批判するより、dhammo Sandiṭṭiko(サンディッティコー ダンモー)と言っている本人から定義していただくように頼むことは、とても知識的で立派な態度だと思います。
現見(現証)以外の「法の六徳」
そこで経典ではSandiṭṭiko という言葉しか定義していませんが、一応、念のために全部の意味を簡単に述べておきます。Svākkhātto スワーッカートーは、正しく完全に説かれた教えである、という意味です。
Akāliko アカーリコー は、結果には時間がかからないということで、Sandiṭṭiko とほとんど似た意味です。Ehipassiko エーヒパッスィコー は、誰でも見てください、実験してみてください、結果が出ます、と言えるものなのです。Opanayiko オーパナイコーは、導いてくれる、清らかな心にちゃんと案内して導いてくれるということです。
それからPaccattaṃ パッチャッタン veditabbo ヴェーディタッボー、しかし各自でこの実験を行わなくてはいけないのです。誰かが実験してレポートを出せば、それで十分ということではなく、一人一人で実験しなくてはいけない教えなのです。なぜならば仏教は心を清らかにする教えなのです。ですから自分の心を清らかにするためには、自分がこの実験を行わなくてはいけないのです。さらにPaccattaṃ パッチャッタン veditabbo ヴェーディタッボー viññūhi ヴィンニューヒ 智者たちによって各自で知られるべき法、とあります。智者(viññū)という言葉が出てくると、もうお手上げの気分になってしまいますね。智者が自分で実験してくださいと言われた時点で、だいたい一般の人は「あ〜そうか、私たちは管轄外なのか。自分は智者ではない。そんな賢くないからなぁ……」と落ち込んでしまうのです。
Viññū とは「理性のある人」
この経典には、このモヤモヤへの答えがあります。そんな落ち込む必要はないのです。学者の方々はviññū を智者と訳しますが、私はブッダの定義にもとづいて「理性のある人」というふうに訳語を変えています。Viññū というのは理性のある人。理性があると言ったら、ほとんどの人間に理性があるのしょう。だって味噌汁にソフトクリームをつけて食べないでしょう? それも理性なのです。両方を食べたければ、別々に食べます。そういう感じで常識的に善し悪しが分かる程度で十分なのです。
この「理性のある人」というポイントを極端に強調しているのは、一般的に宗教は理性が嫌いだからです。宗教家は私たちに、理性を捨てて信仰せよと迫るのです。私が「本当に神様が我々を作ったのですか?」と聞いたら、「そんな神を冒涜する質問はするな。聖書に書いてあるんだから、その通りに信じなさい」と怒る。あるいは逆に「神が全知全能でこの世界を作ったならば、なんで世界はこんなに酷いものなのか」と聞いたら、「それはあなたの管轄ではない、神が何か考えてそういうふうに作ったでしょう。だから黙っていなさい」というふうに、だいたいどんな一神教でもそういう態度を取るものです。そうすると理性に立場がないのです。例えば「神が人間を作ったならば、なんで神の教えを信仰しているのは一部の人間だけなのか? なんで多数の人間が聖書を持っていないのか?」と聞くと、「だから我々は戦争をして聖書を拡げている」と言うのです。そこで理性を持っていれば、「それはあなた方の勝手なやり方でしょう。もし神が人類にあなたの宗教を信仰して欲しければ、人類全員にメッセージを送るべきでしょう。なんで人類全員に送らないのか? なぜある一人の人だけにメッセージ送るのですか?」などと、いくらでも議論や反論をすることができるのです。しかし、宗教では「そのような考え方は異端だ」とストップをかけてくるのです。
そういうわけで、仏教は理性のある人に話しかけているのです。迷信に飛びつかない、宗教の脅しに怯えない、自分で判断する理性のある人に向かって真理を語っています。かといって、超エリートにだけ喋りかけているわけでもないのです。指で数えられるくらいの選ばれた人にしか通じない内容ではなく、もっと広く人類に語りかけているのです。人類の中にも理性に乏しい人々はいるかもしれませんが、ほとんどの人間は大脳が働いています。2+2=4だと分かれば、ある程度の理性はあるのです。卵を食べようとして、中身を捨てて殻を食べるような勘違いはしないでしょう。それくらいの常識さえあれば、ブッダの話を聞く資格があるので大丈夫です。安心して、次に進みましょう。
(続きます)