2021/12/27

刺激を受けるために「生き続けたい」と希望する ほんものの恐怖③-4

自分の感覚に愛着する③-3の続き


そこで私たちは、

「眼でいい感覚を感じたい、耳でいい感覚を感じたい、鼻でいい感覚を感じたい、舌でいい感覚を感じたい、身体でいい感覚を感じたい、思考でいい感覚を感じたい」という無理な希望を、さらに誇大妄想的な希望へと膨らませるのです。

この妄想を、心が「生きていきたい」と解釈するのです。

生きていなくては、いい感覚を感じ続けることはできないのは事実ですが、一般的に人は、それに気づかないのです。ただ、「生きていきたい」「死にたくない」と言い張るだけです。

この誇大妄想的な希望を、「存在欲」と言います。

これはまったく間違った、アベコベのプログラムから生まれた希望です。

生きるということを、理解していないからこそ、「存在欲」が生まれるのです。

生きるとは、六つの感覚の流れがぐちゃぐちゃ生まれて消えて、生まれて消えていくことに過ぎません。

これはどうにもならない現象です。


たとえば激しい勢いで流れている川があって、それを眺めているとしましょう。

眺めていると、自分の気持ちや感覚も変わっていきます。もうどうにもなりません。そこに「自分の希望」が入り込む余地はないのです。

川を観察している人に、自分の意志を満足させることはできません。「こんな波を見たい」とか「こんな渦巻を見たい」「流れが弱くなってほしい」「もっと速く流れてほしい」などということは叶うわけがないのです。

ご飯を食べるときも同じです。「こういう味を味わいたい」と思って食べても、そのとおりの味は味わえません。ご飯を噛むごとに、舌で感じられるものしか味わえないのです。それは一定していません。目まぐるしく変わります。

しかし、私たちは妄想に過ぎない「美味しいご飯」に対する愛着を作り、固定した「おいしさ」を追い求めているのです。

(続きます)


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スマナサーラ長老 法話「ほんものの恐怖とは?」
文責:出村佳子
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【根本仏教講義】ほんものの恐怖とは?スマナサーラ長老

生きとし生けるものが幸せでありますように