自由 vs.執着
「自由」を経験したことのある人はひとりもいません。
政治や経済の世界では「自由」という言葉を使って格好つけていますが、本当は誰も自由を経験したことはないのです。
自由というのは言葉だけのことで、世の中には存在しないものなのです。
自由の反対は、執着や束縛です。
自由とは違って、人は皆、この執着や束縛を日々経験しています。ですから「執着とは何か? 束縛とは何か?」ということについて学んだほうがよいのです。「執着や束縛のデメリットは何か? メリットはあるのか? なぜ生じるのか? どのように断つことができるのか?」ということを学ぶのです。
今まで一度も経験したことのない、全くわからない自由をいきなり目指すのではなく、「なぜ自由を得なくてはいけないのか? 何からの自由なのか?」を発見するのが、仏教的なアプローチです。
そこで、それを発見し、納得したら、束縛を断とうという意欲が生まれてきます。
「束縛は危険なものだ」ということがわかると、束縛を断つ意欲が湧いてくるのです。
その意欲がなければ、実践することは難しいでしょう。
自由はそう簡単に得られるものではありません。束縛は相当きついものですから、かなりの勇気を振り絞って頑張らなくてはならないのです。
怠ることなく励む人だけが、自由のやすらぎに達するのです。
束縛・執着とは何か?
束縛とは何でしょうか?
仏教用語に「upādāna(ウパーダーナ)」という言葉があります。意味は「執着」です。
これは簡単に理解できる言葉ではありません。お釈迦様が、執着はこころの問題だと見て、こころの働きを徹底的に知り尽くし、こころの認識機能を精密に知り尽くした上で、執着について説いているのです。
Cattārimāni, bhikkhave, upādānāni. Katamāni cattāri?
Kāmupādānaṃ, diṭṭhupādānaṃ, sīlabbatupādānaṃ, attavādupādānaṃ.
(Majjhimanikāyo 2.Sīhanādavaggo 1.Cūḷasīhanādasuttaṃ 143)
執着は四種類あります。
① kāmupādānaṃ:欲(五欲)への執着(欲取)
② diṭṭhupādānaṃ:見解への執着(見取)
③ sīlabbatupādānaṃ:儀式・儀礼・行等への執着(戒禁取)
④ attavādupādānaṃ:「我論」への執着(我論取)
一つずつ説明しましょう。
① kāmupādānaṃ(欲取)
一番目は、kāmupādānaṃ(欲取)で、欲(五欲)への執着です。
ここでの欲とは、感情のことではありません。
欲と言えば感情ですが、この欲は、こころの状態のことを指しています。
Kāmupādāna の kāma は感情ではなく、「眼・耳・鼻・舌・身」の感覚器官に触れる「色・声・香・味・触」の情報のことです。つまり、見るもの、聞くもの、嗅ぐもの、味わうもの、身体に触れるものに、「欲」と言うのです。
パーリ語では「眼・耳・鼻・舌・身」を「Cakkhu・sota・ghāna・ jivhā・kāya」と言い、それらに触れる「 色・声・香・味・触」を「rūpa・sadda・gandha・rasa・phoṭṭhabba」と言います。
感覚器官も、その対象も、物質(rūpa :色)です。仏教から見れば、「眼・耳・鼻・舌・身」も、「色・声・香・味・触」も、物質なのです。
この「色・声・香・味・触」の五つの対象に執着したり依存したりすることを、「欲」と言うのです。
一般的には、物にたいして欲と言わず、「物が欲しい」という気持ちに、欲と言います。
この kāmupādānaṃ の場合、kāma(カーマ)は物のこと、upādāna(ウパーダーナ)は執着で、その物に束縛されていることです。
・生存するために対象に依存する
私たちは生きるために「眼・耳・鼻・舌・身・意」に頼らなければなりません。
ご飯を食べる場合は、味や香りに頼らなければなりません。依存せずにはいられないのです。
見るものや聞くもの、嗅ぐもの、味わうもの、身体に触れるものがなければ、どうやって生きられますか?
生きるということは、そういうものに頼ることです。物に依存しているのです。
それで、このとき物にたいして愛着(upādāna)が生まれます。そのことを、欲取(kāmaupādāna)と言うのです。
(続きます)
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法話:スマナサーラ長老
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文:出村佳子
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生きとし生けるものが幸せでありますように