2024/09/30

「私」とは誰か?①

 

〈私がいる〉という実感

「私とは誰か?」という一般的な質問があります。それは私のことを知りたい、という欲求から起こる問いのようです。一方、仏教では「私という実体はない」と言っています。「ない」と言われても、誰にだって「自分がいるんじゃないか」という実感があるので、仏教は変なことを教えていると訝しがられる結果になるのです。

仏教では、誰にでも「私がいる」という実感はあるけれど、それは「私がいる」という証拠ではないと強調するのです。ただ、「〈私がいる〉という実感」があるだけなのだと。実際は、「〈私がいる〉という実感」ですらなくて、単純に「実感」なのです。

ただ感じることです。ただの実感にわざわざ主語を入れて「〈私がいる〉という実感」と呼んでいるだけなのです。主語を入れたのはおそらく言語のせいでしょう。言葉というのは主語がないと成り立たないものですから。

ほんとうは、ただ実感というものがある。それだけなのです。英語で表現するならば I feel ではなくて there is feeling です。英語で雨が降るという場合は、it is raining と言い、it が必要になります。Raining だけでは、なんかちょっと分からなくなってしまう。There is feeling ならいいんだけど、I am feeling というのはおかしい、というのが仏教の立場です。

やっぱり、仏教は変なことを言っていると思われるでしょうね。でも、ここまで言ったことはご自分で実験できます。ブッダの瞑想法というのは、その実験なのです。別に宗教的な儀式ではありません。神秘的な行をしているのだと思うのではなくて、ただ「実験しているんだ」という気持ちで瞑想するならば、瞑想もうまく進みます。





争い続ける無数の「私」


それからもう一つ、一般的に人々が知らず知らず陥っている誤りがあるのです。一般の人たちは一個の固定した、変化しない、「私」という塊があると思っているのです。ひび割れも入らないし、壊すこともできない塊が、確固として存在するのだと。

実際には、「私」というものはたくさんいるのです。数え切れないほどたくさんの「私」が目まぐるしく入れ替わっている、というのが本当のありようです。

特に、古代インドから続くヒンドゥー哲学では、絶対変化しない「私」というメッセージを強烈に繰り返しています。絶対的でまったく変わらない、壊すことは絶対不可能な個我(アートマン)がある。それを探しなさいと。その絶対的な「私」を見つけることこそが、宗教の究極的な目的であるとまで言うのです。ヒンドゥー教で「梵我一如」と呼ばれる境地ですね。なぜ梵我一如かというと、魂の親分を「梵(ブラフマン)」と呼んでいるからです。

そういうアートマン探しは、決して科学的なアプローチではないのです。最初から「これは絶対的に真理である。あなたには固定した絶対に変わらない、焼いても切っても変化しない、絶対的な自分がいる。それを探しなさい。分からないのはマーヤーという幻想のせいだ」 と決めつけるのです。要するに、最初から前提を定めていて、その前提については議論するなということです。前提が無条件に正しいと決めつけることは、科学的な態度とは到底言えません。

さらに、個の魂たるアートマンにはブラフマンという親分がいるのだ、とまで教えています。そう言われると、瞑想する人は、「はい、わかりました。魂の親分と一緒になるために頑張ります」となってしまう。そうやって、検証不可能な前提を置いて、それに基づいて修行の目的を設定するのは非科学的です。もとから非科学的な瞑想なので、いくら修行しても誰かがお膳立てした妄想の世界で泳ぎ続けるだけの結果になります。


実感を科学的に検証する


仏教の瞑想の場合は、それとは明確にスタンスが異なるのです。仏教では元からアートマンという妄想を捨てていますが、あえてその用語を使うならば、「魂(アートマン)があるという証拠があるのか、それが事実なのかと調べるところから始めなさい」と教えるのです。仏教の瞑想は、魂がある、絶対的な神がいる、という前提を躊躇なく捨てるところから始めるのです。証拠がないのであれば、それは何の意味もない妄想だと。そういうわけで、仏教の瞑想は、疑ってはならない前提に基づく他宗教の瞑想とは似ても似つかない、科学的な実験なのです。

そこで、最初のお話に戻ります。誰だって「〈私がいる〉という実感」を持っています。皆様に提案したいのは、その実感は本当に「〈私がいる〉という実感」なのか、それとも、ただの実感なのかと調べてみてください、ということです。

ブッダの瞑想は科学的な実験である、と言いましたね。それは人生を賭けるに値する最大の実験なのです。しかし、いたってシンプルな実験です。何を実験するのかというと、今言ったことです。自分を実験材料にして、「〈私がいる〉という実感」でしょうか? あるいは、ただ単に「実感」でしょうか? ちょっと調べてみてください。英語で言えば、Either I am feeling or just thereis feeling というポイントなんです。これを仮説にしておくんです。私が言ったからといって、それに乗る必要はありません。Either I am feelingor just there is feeling 「私に」実感があるのか? あるいは、ただ単に実感があるのか? 主語がいるかいらないか? ご自分で調べてみてください。

私たちの頭の中で「主語」に凝り固まることがなくなったら、それで心が自由になっているはずです。主語が消えたら、そこから面白い世界が現れますよ。


(次号に続きます)


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文:出村佳子

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