2012/09/03

人生の会計士 3

人生はモノの流れの交差点「損得勘定の智慧 2」の続き


愚者は垂れ流しの生き方をする

「愚者」は損得を勘定することも、自分の感情をコントロールすることもできません。


結果として、いつでも損をする羽目になります。前回お話ししました物々交換の例で、着物を持っているAさんは、Bさんの大根が欲しいのですが、着物と大根をそのまま交換するのではAさんがちょっと損をするでしょう。そこで少し頭を働かせて工夫するのです。たとえば隣にいるCさんがリンゴと草履を持っているとします。AさんはCさんに交渉して、CさんのリンゴとBさんの大根を交換してもらうのです。リンゴと大根の価値はほぼ等しいですから、BさんもCさんも納得して物々交換が成立するでしょう。そしてその後、Aさんは自分の着物と、Cさんの大根・草履を交換するのです。これでAさんは損をしないですみます。このようにちょっと頭を働かせて、損の無いように生活することは決して悪いことではありません。でも、勘定をないがしろにする愚か者には、このような工夫ができないのです。


それから、生きる上では新しいこと(ただし善いこと)に挑戦する勇気も欠かせないものです。ですが愚か者は「失敗するのが怖い」とか「面倒臭いからやりたくない」といってチャレンジするのを億劫がります。しかしそれではいっこうに「得」することができません。なぜなら新しいことに挑戦することによって、私たちの心は徐々に進歩してゆき、何らかの「得」が得られるのですから。

また「損するか、得するか」とはっきり分からない場合もあるでしょう。そんなとき、わずかにでも善いことがあると分かったら、たとえ今までやったことがないにしても、思い切って「挑戦してみる」ことが大事なのです。

ときどき「私は損得なんか気にしない。気の向くまま、風の吹くままに生きて行く」と言う人がいます。このような放浪的な人のことを「格好いい」とか「立派だ」と称賛する人も少なくありません。本人もきっとそう思っているでしょう。しかしこれは大変な無知の生き方であり、正真正銘の愚か者の生き方なのです。すべてを運命に任せている愚か者は、自分で努力しようとしませんから、何の進歩も得られずに堕落するばかりです。

そうではなく「これをすれば得をする、これをすれば損をする、これは善いことだからやる、これは悪いことだからやらない」とはっきり計算して生きるべきなのです。

賢者は損得を乗り越える


「賢者」とは悟った人のことです。賢者は損得に対してどのようなアプローチをしているのでしょうか。


完全に悟りを開いた賢者は損得には囚われません。だからといって愚かな生き方もしません。損をしても得をしても「自分は単なる交差点だ」と法則を正しく理解して、落ち着いているのです。


何が入っても何が出て行っても――宝石が出入りしても、牛馬の肥料が出入りしても、「私とはモノが出入りする交差点」と考えて冷静にいるのです。

このように賢者は、損をしてもそれに悩みませんし、得をしてもそれに惑わされません。一
切のものに執着しないで清らかな心で生き、完全なる自由を得ています。
損得は必ず勘定しなくてはならないものですが、それに引っ掛かって舞い上がったり落ち込んだりすると、心の自由が消えてしまうのです。
何にも囚われることのない賢者だけが、損得を乗り越えて、自由な心で、勝利者として生きることができるのです。

正しい価値判断能力を養う


賢者の生き方はひとまず脇に置いておきましょう。


いきなり損得を乗り越えた賢者の生き方に飛ぶのではなく、先ず、損得を正しく勘定する「知者の生き方」を学んだ方が皆様の役に立つと思います。知者の生き方については前回お話し致しましたが、ここでもう少しポイントを付け加えておきましょう。


家庭の主婦が家計簿を付けて金銭を管理しているように、私たちは誰でも「人生の家計簿」を付ける必要があります。金銭だけでなく、知識、情報、道徳、人間関係を含めた人生全体の家計簿を付けなければなりません。しかし私たちはお金や物を勘定することに関しては慣れていますが、それ以外のものについてはほとんど勘定していません。この、勘定をせずに無知でいることから、さまざまな問題が発生しているのです。

たとえば知識について考えてみましょう。一般的に、知識は良いものとみなされています。しかし知識には私たちの役に立つものと有害なものとがあるのです。役に立つ知識とは、仕事をするために必要な知識とか仏教の知識などです。これらは私たちが生きる上で大変役に立つものですから、たとえ勉強が嫌いでも頑張って学んだ方が良いでしょう。他方、有害な知識とは、武器や爆弾を製造するなど生命に害を与える知識です。これは決して学んではなりません。学ぶぐらいならいいのではないかと思われるかもしれませんが、知識を入れるだけでも危険なのです。なぜなら、何かを知ればそれを作りたくなり、作って完成したら実際に使用してみたくなるからです。これが人間の心というものです。ですから大切なことは、どの知識を得るべきか、あるいは避けるべきか、何が役に立ち、何が役に立たないか、を勘定する智慧を身に付けることです。あらゆるものに対して損得を勘定する訓練をして、価値判断能力を養うことが、幸福に生きるために欠かせないことなのです。

そしてそれには「注意力」が必要です。たとえば子供がいたずらをすると、母親はたいてい「そんなことをしたらダメでしょう!」といきなり大声で怒鳴るでしょう。それで子供はいたずらをやめるでしょうか? 

そのときは驚いて一時的にやめるかもしれません。でもすぐに次のいたずらが始まるのです。
そして、また母親が怒鳴る――。
結局、子供の行動に振り回されて怒鳴っている母親の方が疲れてしまうのです。

そこで、子供を叱る前にちょっと立ち止まって、「どう言えば子供はいたずらをやめるだろうか」と考えてみるのです。ただ感情的に言いたい放題のことを言うのではなく「この言葉は子供にとってプラスになるか、マイナスになるか」と考えてみます。そしてプラスになることだけを言うのです。このような注意力があれば、損をして苦しむことはないでしょう。

ところで、どこのスーパーに行っても一つや二つ「安売り」などと表示された札を見かけるものです。その札を見たとたん「安い、得だ」と勘違いして、いきなり飛びついて買ってしまう人がいます。たとえば「十個まとめて買うと二〇%引き」とあるとします。確かに単品を通常の値段で買うよりも得するでしょう。しかし問題は、その品物が十個も自分に必要かということです。もしそれが食べものなら消費期限があるはずです。せっかく「安い」と思って買ったのに、結局、近所の奥さんたちに配る羽目になります。人に分けてあげるのは悪いことではありませんが、特売で安く買ったものを消費期限が切れるからといって捨てるようにあげても仕方ないでしょう。受ける側も感謝して受け取ることはないのです。ですから、総合的に見ると大変な損をしていることになるのです。

もし人に何かあげたければ、価値のあるものを買って「これを差し上げます」と大事にあげた方がいいのです。そうすれば相手も「私のことをよく思ってくれている」と気持ちよく受け取ってくれますから。

何も考えずに感情でパーっと行動しても何の得もありません。このような理由で、私たちは「注意深く生きる」ということが大切なのです。

人生の会計士 


私たちは自分の人生の会計士にならなくてはなりません。
社会には「会計士」と呼ばれる職業があります。会社の金銭や物品の出入りを監督して検査する人のことです。残念ながら、このように個人の人生を検査・監督してくれるような会社はありません。ですから自分の人生は自分で管理しなければならないのです。「あなたの代わりに私が生きてあげます」とか「あなたの代わりに私が勉強してあげます」というのは絶対に成り立ちません。自分の人生を他人に任せることはできないのです。自分が智慧を身に付けて、自分で自分の人生を管理する以外に方法はないのです。


そして、仏教とは自分の人生を勘定する学問、つまり「人生の会計学」です。これを学ぶことによって、私たちは財政的にも精神的にも倒産することなく、豊かな人生を生きることができるのです。
(続きます)
アルボムッレ・スマナサーラ長老法話
文:出村佳子

2012/09/02

人生はモノの流れの交差点 2

損のない生き方「損得勘定の智慧 1」の続き


損得を勘定する人は「得」をする



自分の損得を勘定する人は、相手の損得も勘定することができます。
ですからその人は、相手の気持ちが理解できる、自我を張らない善い人間になります。
それから、財・知・人の三つの分野で得をするのです。財というのは財産や金銭、物のこと。知とは知識のこと。人とは人間関係のことです。損得を勘定する人は「どうすれば役に立つか」とか、「自分や皆にとって何が得か」ということを常に考えて行動しますから、その生き方は有効的で友好的なものになり、他人にも好かれ、人気者になります。他人の甘言に騙されて悔しい思いをすることもありません。

世の中には「悪い行為をすれば損をするし、善い行為をすれば得をする」という因果の法則があります。損得を勘定する人は、この法則をよく理解して、人を助けたり親切にしたりなど、常に善い行為を実践しようと努めます。結果として、その人の人生は人格が向上する方向へと赴き「得」に溢れる人生になるのです。


損得を表すさまざまな言葉



さて次に、言葉の面から損得について考えてみましょう。
日常生活の中では「損・得」「出る・入る」を言い表すために多くの言葉が使われています。
たとえば「出る」という言葉を表現するのに日本語にはさまざまな言葉があります。「寄付する」ことも「出る」という意味なら「攻撃する」ことも「出る」という意味です。しかし同じ「出る」ということを表していても意味が全く異なるのです。「寄付する」には善い評価が含まれますが「攻撃する」には悪い評価が含まれています。このように言葉には人の感情や評価が含まれているのです。他にどのような単語があるのかいくつか挙げてみましょう。

出て行くもの (output)



中立的な語
感情や評価がほとんど含まれない中間的な語――送る、話す、放す、渡す、あげる、送信する、提供する、発表するなど。


積極的な語 
「善いことした」と胸を張って評価している語――布施する、寄付する、慈しむ、援助する、支援する、応援する、助言するなど。


消極的な語 
「悪い」という否定的な評価が含まれている語――殴る、蹴る、攻撃する、押し付ける、撒き散らす、放言する、垂れ流す、漏洩するなど。


入って来るもの (input)


中立的な語
得る、貰う、聞く、飲む、食べる、吸う、取り入れる、集める、受信するなど。


積極的な語
習得する、受理する、頂戴する、歓迎する、受賞するなど。


消極的な語
奪う、盗む、貪る、搾取する、横領する、掻き集めるなど。



ここに挙げた語はほんの一例です。私たちは日常生活の中で常に「出る・入る」の生き方をしていますから、他にもたくさんの言葉があります。それは私たちが感情で評価して区別している分だけあるのです。


人生は流れの交差点



これから説明するポイントは少々難しいかもしれません。法則についての話しです。
「生きる」ということは、モノを「与えて得る」という交換の連続なのです。私たちはこの世に生まれた瞬間から死ぬ瞬間まで、入る(input)と出る(output)の流れの中で生きています。外からモノを入れて自分の内から何かを出す。酸素を入れて二酸化炭素を出す、ご飯を食べて栄養を摂取し、体力などで出す、この流れの連続です。一部が入り一部が出る、この交差点に私たちは「自分」と名付けているのです。ですから「自分」とは、何の実体もない、何の存在価値もない、ただモノが出入りするだけの一時的な「交差点」にすぎないのです。



それなのに私たちは「自分がいる、私は偉い」と勘違いしています。ちょっと高価なモノを与えると「私は偉い、他の人とは違う」と自慢する気持ちが生まれてくるでしょう。たとえば頭の中でいろいろ想像を巡らせて小説を執筆し、それがベストセラーになって有名な賞を受賞したとします。そのこと自体には何の問題もありません。問題なのは「私は○○賞を受賞した立派な人間だ。偉い人だ」と、とんでもない妄想を働かせることなのです。仏教から見れば、その作家はあちらこちらから情報を掻き集め、それに少々手を加えて、新作と称して外に出しただけなのです。作家だけでなく、芸術家も、科学者も、政治家も、どんな人も、このように「入れる・出す」の機能しかやっていません。この機能が「生きる」ということなのです。



これはちょうど「物々交換をする場所」のようなものです。昔の人たちは木の下や広場、道路の脇などで、各々が所有するモノを持ち寄って、物々交換をして生活を営んでいました。その場所は、単に「モノを交換する場所」であって、特別に「立派な場所」ではなかったのです。「私」というものも、いろいろなモノが行き来し、出入りする場所にすぎません。もし高価なモノを持っているなら「あちらに行けば良いモノが手に入る」と人々の間でちょっと評判が良くなるぐらいのことで、その場所自体には何の価値もないのです。



このように「私」または「存在」というものは、さまざまなモノが行き来する交差点であって、そこに実体はありません。ですから「得した」といって舞い上がることもありませんし「損した」といって落ち込む必要もないのです。しかし私たちはいつでも損得に惑わされて苦しんでいます。でも考えてみてください。「得した」といって何に喜ぶのでしょうか? あるいは「損した」といって何に落ち込むのでしょうか? 自分というものは単なる交差点にすぎないのですから、損得に左右されて一喜一憂し、心をかき乱すべきではないのです。



たとえば、ある物々交換の場所に、Aさんは着物を、Bさんは大根を持ってきたとします。二人は互いに自分の持っているモノを交換しました。後になってAさんは「私の大事な着物を大根なんかと交換して損した」と後悔するかもしれません。確かに着物の方が大根よりも高価でしょう。でも悔しがる必要はないのです。なぜなら自分というものは単なる交差点にすぎないのですから。着物が出て行き大根が入って来たといっても、交差点にとっては損も得も関係ないのです。何度も言いますが「私」というものは物々交換の場所なのです。この因果法則の真理を理解できれば、私たち穏やかで気楽に生きることができるでしょう。



しかし損得は無視できない


これまで、自分というものは単なる交差点だから何が出入りしても冷静に落ち着いていましょうという話しをしてきましたが、これを実践できるのは法則を理解した賢者のみです。実際のところ私たちは無知ですから、そのように落ち着いていることはできません。では、どうすれば良いのでしょうか?


知者は正しく損得勘定をする


「知者」というのは私たち、つまり普通の人間のことです。私たちは先ず理性を育て、ものごとの損得を正しく勘定することを学ばなければなりません。損得というと私たちはすぐに金銭や物品のことを思い浮かべますが、それだけでは足りません。知識、情報、技術、人間関係、道徳、人格などいろいろあります。あらゆる損得を考慮して、勘定しなければならないのです。たとえば情報を得るときには、何でも鵜呑みにするのではなく、「これは良い情報か、悪い情報か」「役に立つか、役に立たないか」と計算してみるのです。人と付き合うときも「この人は道徳的な人か、そうではないか」「この人と付き合うと損するか、得するか」というように、日々の生活の一つ一つの損得を理性的に勘定することが大切なのです。これができれば「損」をして落ち込んだり苦しんだりすることはありません。

それから「得」をしたいからといって、他人の財産を盗んだり、奪ったり、騙し取ったりと、不正的な手段を使ってはいけません。他人に迷惑をかければ必ず自分が損をします。自分の感情をコントロールして、他人にも自分にも損害を与えないように気を付けなければならないのです。

また、自分の知らないことは、真理を知っている賢者に聞いてアドバイスを受けることも大切です。
このように理性を持って損得を勘定するなら、損の無い有意義な人生を送ることができるでしょう。


(続きます)


アルボムッレ・スマナサーラ長老法話
文:出村佳子