2013/05/01

事実を知ろうとしない無知(智慧ある人は愉しんで生きる③-1)



事実を知ろうとしない無知

私たちは相対論、つまり「世の中は有でも無でもなく因縁に依って一時的に成り立っている」という真理を、なかなか理解することができません。理解できないということは仕方ありませんが、理解しようとする努力もしないのです。

先日のことですが、経営状態が思わしくなく借金を抱えて困っているという、ある会社の方々に話しをする機会がありました。


私が何を話したかといいますと「どんなに借金があっても悩んだり落ち込んだりすべきではありません。いまやるべき仕事をしっかりやってください。精一杯やって、それで会社が倒産して、ホームレスになったとしても、それはどうしようもないことではありませんか。ホームレスになったら元気に明るく、その場その場で生活すればいいのです。肝心なのは、どんな状況であれ、瞬間々々明るく堂々と生きることです。食べ物をゴミ箱から拾って食べるようになっても、私はなんて惨めなんだと思うと、苦しいでしょう。そうではなく、今日はいいもの見つけた、ついているぞ、と思えば人生は愉しいのです。このような思考をもつ人に苦しみはありません」と。


講演が終わったあと、一人の男性が私にこう言いました。「あなたの話しはわかります。しかし厳しすぎます。借金を抱えている私たちには、もう少し心が安らぐような話しをしてくれたほうがよかったのではないか」と。

この言葉からわかったことは、この男性が聞きたかったのは、祈祷すれば商売が繁盛するとか、苦労しなくてもお金が儲かる方法とか、そういうことなのです。でも、そういう類の話しは全部うそです。

このように、人は事実を聞きたがりません。でも、信じれば天国に行けるとか、祈れば神様が望みを叶えてくれるとか、そういうごまかしを言うと、みんな喜んで、その通りだと理解するのです。このような態度では、当然、事実を理解することなどできません。ということは、真の愉しみや幸福も得られないのです。





愚か者が行う改革は危険

それから私たちは、事実を知ろうとしないだけでなく、他を自分の思いどおりに変えようとしています。子供を変えよう、夫や妻を変えよう、部下を変えよう、周りの人を変えようと頑張っています。でも、暴れまわっている子供をおとなしくさせるのは簡単でしょうか。上司が部下に、営業成績をあげろと命令しても、効果があるのでしょうか。

子供を変えようとすると子供は「うるさい」と言ってさらに反抗するでしょうし、部下にプレッシャーをかけても、余計に焦ったり不安になってうまくいかなくなるものです。結局、相手を強引に変えようとすると、相手はものすごく苦しむのです。そしてそこから対立や争い、ひいては戦争までもが生じるのです。因果法則を知っている人は、そういう無理強いはしません。

それから人間は自然も変えようとしています。山林を伐採して道路をつくったり、トンネルを掘ったり、石油を掘ったり、海や沼を埋め立てて陸地をつくったりと、次々に自然を変えるのです。それで私たちは幸福になったでしょうか? 科学技術が進歩して、生活は確かに便利になりました。でも、心の安らぎや安心感だけはないのです。


私たちが毎日食べている米や野菜は、本来人間の体にいいものですが、いまは農業技術が発達したために、田畑に多量の農薬や化学肥料を撒いていますから、いいものであるはずの農作物に毒がたっぷりかかっています。ですから安心して食べられない状態になっているのです。それで最近では、無農薬の野菜を買う人も多いようですが、それも本当に無農薬かどうかはちょっとわかりません。なかには「無農薬というラベルを貼れば儲かる」と考えて商売している人たちもいますから、あまり信頼できないのです。



ですから無知な人たちが、農業を改革しよう、経済を成長させよう、科学を発展させようとすると、世の中は混乱して危険な状態に陥ります。大量化学兵器は誰がつくったのですか? 無知な科学者たちです。そのために大勢の罪の無い人たちが犠牲になり苦しむ羽目になっているのです。

しかし、因果法則を知っている智慧のある人が世界の発展に携わるなら、すばらしい世界になることは間違いありません。なぜなら智慧のある人は常に皆の幸福と平和を考えて行動するからです。


そこで、できれば子供たちは、まず仏教を学んで智慧を育ててから学校で勉強したほうがいいと思います。そうすれば社会の役に立つ立派な人間に育つでしょう。



無常・苦・無我

これまで相対論について話してきましたが、相対論がむずかしくて理解できないという方は、次の真理を理解できるように頑張ってください。

・一切は無常である

・一切は苦である
・一切は無我である

という三つの真理です。でも、この三つを全部、理解する必要はありません。このなかの一つだけを理解すればよいのです。
そこで、無常を理解するか、苦を理解するか、無我を理解するかは、各人の性格で決まります。

一般的に誰でも理解しやすいのは「無常」です。「苦」は、観察力が鋭い人に適しています。苦を観察することは簡単ではありません。これは単に苦しいという意味ではなく、もっと深い意味の「虚しい」という意味なのです。鋭い観察力で生命を観察するなら「苦」というポイントがよいでしょう。「無我」は、ものごとを深く考える思想家や哲学者に適しています。ヨーロッパに有名な哲学者がいましたが、あのぐらいの能力があれば「無我」にチャレンジしたほうがいいと思います。

次に、誰にでも理解しやすい「無常」についてお話いたしましょう。(続きます)


A. スマナサーラ長老
事実を知ろうとしない無知(智慧ある人は愉しんで生きる③-1)


2013/02/25

Maghapuja day


 一切の悪を犯さないこと。

 善に至ること。

 心を清らかにすること。

 これらが諸仏の教えです。

 ダンマパダ183

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 Sabba papassa akaranam,  Kusalassa upasampada, 
 Sacitta-pariyodapanam,  Etam Buddhanusasanam.

 Dhammapada183

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~Maghapuja day!




2013/02/18


あらゆる行為は、
心にもとづき、心を主とし、
心によってつくられる。
汚れた心で行ない、話すなら、
苦しみが付いてくる。
車輪が、荷車を引く牛の足跡に付いて行くように。



あらゆる行為は、
心にもとづき、心を主とし、
心によってつくられる。
清らかな心で行ない、話すなら、
幸福が付いてくる。
影が、その身体から離れないように。           


ダンマパダ1・2 


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Mano pubbangama dhamma, mano settha manomaya,
manasa ce padutthena, bhasati va karoti va,
tatonan dukkha manveti, cakkhan va vahato padan.

Mano pubbangama dhamma, mano settha manomaya,
manasa ce pasannena, bhasati va karoti va,
tatonan sukha manveti, caya va anapayini.

Dhammapada1,2

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2013/01/26

智慧ある人は愉しんで生きる〈もくじ〉


スマナサーラ長老法話


2-1 相対論

3-2 無常・苦・無我

4  今の瞬間を生きる

5  過去に悩まず、未来を期待せず

6  最高の愉しみ

生きとし生けるものが幸せでありますように

2013/01/10

善友


ある日、アーナンダ尊者がお釈迦様にこのように尋ねました。

Upaddhamidam, bhante,
brahmacariyassa yadidam kalyānamittatā kalyānasahāyatā kalyānasampavankatā.

善友がいること、善友と共にいること、善友とつきあうことで、
仏道の半分が達成できると思いますが、いかがでしょうか。

これにたいし、お釈迦様はこのように説かれました。

Mā hevam, ānanda, mā hevam, ānanda. 
Sakalameva hidam, ānanda,
brahmacariyam yadidam 
kalyānamittatā kalyānasahāyatā
kalyānasampavankatā.
(Samyutta Nikāya)

アーナンダよ、そうではない。
アーナンダよ、そうではない。
善友がいること、善友と共にいること、善友とつきあうことで、
仏道の半分ではなく、仏道の全てが完成するのです。

(相応部経典)


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本年が皆様にとって幸せな年になりますように
生きとし生けるものが幸せでありますように

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2012/11/20

Turkeys

Photo: Woodstock animal sanctuary


Turkeys are sensitive, social individuals, and in conditions where they are permitted to thrive, they are seen for the complex, adaptive, and intelligent animals that they are. Turkey hens are devoted mothers who care diligently for their young, with broods staying together for 4-5 months and male siblings maintaining a social bond for life.

~ Young turkeys under four weeks of age, known as poult
s, learn crucial survival skills and information from their mother, including what to eat, how to avoid predators, the geographical layout of the home range, and important social behaviors.

~ During the day, the birds forage together in brush, fields, and wooded expanses, using their beaks to explore and to locate food; by night, they roost high in trees, safe from predators. The size of a broods’ home range varies, but can be as large as 500 acres.


And did you know?

Turkeys like to have breakfast and dinner as a family. Turkeys have two major feeding times, one during mid-morning, the other mid-afternoon. Family groups often meet to enjoy their meal together.

A mother turkey is very protective of her young, and will risk her life to save her babies. If she feels threatened, she may freeze or sound a cry of warning to her young, instructing them to take cover. She may also attack or pretend that she is hurt to draw the predator’s attention away from her offspring.

Turkeys love to be petted. They will sit happily for long periods having their feathers stroked, and some even purr.

The turkey was almost selected as the United States national bird. Benjamin Franklin proposed the bird to be the proud symbol of the United States.

Turkeys like to listen to music, especially classical. In fact, they like it so much that they will often cluck and gobble in a manner that can only be described as singing along.

It is difficult to sneak up on a turkey. They have excellent vision and a wide visual field of about 270 degrees. They also have great hearing-but no external ears.

Males love to feel noticed and admired. Toms on sanctuaries are known to follow busy human caretakers from chore to chore, standing off to the side, puffing out their feathers in full display, quietly and patiently waiting for the prospect of attention.

On industrial farms, turkeys never know the comfort of a natural environment or the satisfaction of instinctual behaviors. In natural conditions, baby turkeys would stay with their mothers for up to five months, but turkeys on commercial farms never experience the safety or warmth of the nurturing presence they instinctually long for. Instead, they endure confinement, crowding, disease, abuse, and a short life of intense suffering that ends in brutality. Between 250 and 300 million turkeys are raised for slaughter every year in the U.S. – more than 46 million are slaughtered for Thanksgiving alone.

Woodstock animal farm sanctuary, Woodstock, N.Y.

2012/09/07

最高の徳は解脱 7

幸福の見積書「損得勘定の智慧6」の続き


損を避ける方法

損をしない人生を送るためには、与えることをモットーにすることです。社会に対し、自分は何ができるだろうかと考えて、役に立つように生きるのです。そういう人は当然、社会に必要な人間になるでしょう。必要な人間なら、社会はその人を放っておきません。あなたがいなかったら困ります、と言って生かしてくれるのです。つまり自然に生かされるのです。そうなれば、もう他人と競争する必要もなくなりますし、敵もいなくなりますから、生きることはとても楽になります。ですから自己中心的な欲望を捨てて、皆が幸せでありますようにという慈しみの心を育ててください。慈しみがあれば、絶対に損をして苦しむことはありません。得だけの、徳に満ちた幸福な生き方ができるのです。

倒産しない秘訣

お金が欲しい、物が欲しい、地位が欲しい、名誉が欲しいなど、私たちはたいてい何かを求めながら、社会のなかで生きています。しかし人が何かを欲しいと思うとき、それはほとんど自己中心的であり、周りのことは考えていないものです。言い換えるなら、欲しいとばかり思っている人は、周りを軽蔑して侵害しているのです。何かを貰うときは誰から貰うのですか? 相手からでしょう。なのに、その相手を軽蔑していれば貰えるはずがありません。相手つまり社会は、次第にその人を疎んじるようになり、ついには捨ててしまうのです。捨てられたらもう何も貰えません。これで倒産するのです。
そこで倒産する前に、いまの生き方を転換しなければなりません。他人から貰おう、取ろうとするのをやめて、自分が持っているものを皆と分かち合おうという優しい心で生活するのです。そうすれば人生は絶対に倒産しません。これが倒産しない秘訣なのです。
最後に、忘れてはならない重要なポイントをお話いたしましょう。慈しみの心で、幸福に生きることだけが、私たちの最終目標ではありません。輪廻のなかで生存している限り、完全な幸福は得られないのです。生きている間中ずっと「しっかりしなくては」と気を張っていなければなりません。少しでも怠けたり、不注意になれば、足元の土台がガタガタと崩れて、幸福が壊れてしまうのです。これは大変危険なことです。
そこで私たちの最終目標を「心を清らかにして悟りを得ること」と設定しなければなりません。解脱こそが、最高の得であり、究極の幸福なのです。

終わりに

~在家者が豊かに生きるために~

●破滅行為とは?

仏教では、財産を失い、自己破滅につながる行為として、次の六つの項目を挙げています。

①酒や麻薬に溺れること。
酒を飲むと、人は酔っ払って自分の行動や言葉を管理できなくなります。
病気の原因にもなりますし、お金も浪費します。

②夜遅くまで町を遊び回ること。

③踊りや歌、祭りやパーティなどの集会に 熱中すること。

④賭け事をすること。
勝てば相手に怨まれますし、負ければ悔しくなります。

⑤道徳を守らない人や悪影響を与える人たち とつきあうこと。

⑥怠惰に耽ること。
世の中にはこのような破壊行為があることを理解して、損を免れたい人は、これらを避けるべきでしょう。

●財を管理する

在家者は、財の収入と支出によく気をつけて、それを管理するだけでなく、収入の一部を貯金することも、仏教は薦めています。人生では何が起こるかわかりません。事故でけがをしたり、病気で入院したり、災害に遭うかもしれません。このようなことが起こったときのために、あらかじめお金を貯めておくのです。万一、家族や自分に何か起きたときには、貯金をパッと使って借金しないようにするのです。仏教は借金には反対です。借金をしなくても、あるもので満足すればいいと考えているのです。また、貯金をするといっても、お金に執着して、やたらに貯めこむのはよくありません。あくまでも非常時の備えのために、収入の一部だけを貯金するのです。

●見返りを期待しない

「与えるだけ」という最高の徳があります。これは、見返りを求めずに、困っている人や苦しんでいる人を助けることです。たとえば難民キャンプに行って、そこで苦しんでいる人たちに、飲みものや食べもの、医療など、必要なものを施すことがあります。しかし、そこの人たちは何もお返しはくれません。それを承知の上で、なんの見返りも求めずに奉仕することは、素晴らしい模範的な行為です。

しかし私たちはたいてい、このような善い行為をあまりやりたがりません。電車のなかでお年寄りに席を譲るぐらいの些細な行為でも、恥ずかしがったり、躊躇したり、あるいは寝たふりをして無視したり――。ところが昨年、新潟県中越地震が起きたときには、大勢の人たちが「なんとかしなければ」と立ちあがり、義捐金を送ったり、現地でボランティア活動をしたりなど、それぞれが自分にできる形で援助をしました。忘れかけていた「助け合う心」や「思いやりの心」を取り戻したのでしょう。この心が、与えるだけの素晴らしい行為なのです。

しかし、寄付をしたり奉仕活動をする人のなかには「俺がやってあげたんだ」とか「自分は偉い」などと威張ったり高慢になる人が、案外いるものです。それでは心が汚れます。そこで仏教では、行為よりも心を清らかにすることを優先するように、と教えているのです。災害に遭って苦しんでいる人がいたら、正直に、真面目に、純粋な気持ちで「この人たちの苦しみがなくなりますように」「早く町が復旧しますように」と念じて、自分の心を清らかにするのです。病気で苦しんでいる人を見たら「病気が治りますように」「痛みが和らぎますように」などと念じるのです。繰り返し念じることによって、心が少しずつ清らかになってゆきます。自分のことしか考えなかった自己中心的な心が、相手を思いやる優しい心に成長してゆくのです。このように仏教では、何を行うときでも、心を清らかにすることが優先だと考えているのです。

それから経典では、出家者にお布施することも薦めています。出家者たちは世俗の欲望を捨て、経済活動をやめ、在家生活を放棄しています。だからといって怠けているのではありません。人間として最も重要な仕事である「心を清らかにすること」にチャレンジしているのです。お釈迦さまは、悟りを開かれてから涅槃に入るまでの四十五年間、人びとに「偉大なる真理」を説き続けられました。なぜそれができたのかといいますと、在家の方々のお布施があったからです。またお釈迦さまには、大勢の出家の弟子たちがいましたが、彼らを支えたのも在家の信者さんです。出家者が修行をするためには、体を維持しなければなりません。食飲物や身に纏うもの、住む処が必要です。その、生活に必要な衣食住薬を、在家の信者さんがお布施して支えていたのです。そのおかげで、偉大なるお釈迦さまの教えは、二千五百年以上経った今日でも、色褪せることなく、脈々と生き続けています。そして現代に生きる私たちも、当時、お釈迦さまが説かれた真理を実践して、幸福を得ることができるのです。ですから出家者にお布施をすることは、仏教そのものを守る大変尊い行為であり、その徳は、ものすごく高いのです。

Q&A

(Q) 「善行為をするときは人に知られないようにやりなさい」ということをよく聞きますし、他宗教でもそう教えているようですが、募金などをするときは匿名にしたほうがいいのでしょうか。仏教ではこの点ついてどう考えていますか。

(A) 「人に認められたい、褒められたい」という目的で物を与える場合、それは純粋な与える行為だとは言い難いのです。「私はこれだけのことをやったぞ」と威張って宣伝すると、それはただの商売になります。キリスト教の聖書にも「右手のしていることを左手に知られないようにしなさい」という有名な言葉がありますが、そちらでも商売感覚や宣伝機能を断ち切るために、内緒で与えなさいと教えているのです。
しかし仏教では「○○さんはこんな善いことをしました」と周りの人が宣伝することは認めています。そうすると、それを知った人たちも善い影響を受けて、善い行為をするようになるでしょう。それで「徳」が広がってゆくのです。もし誰も知らないなら「徳を積んだ、良かった」という自分だけの満足で終わりかねません。仏教は、自分だけでなく他人も幸福になりましょうという大きな世界ですから、他人の善行為を皆で分かち合い、喜ぶことも大切に考えているのです。
(完)
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アルボムッレ・スマナサーラ長老法話
文:出村佳子

2012/09/06

幸福の見積書 6

与えることの喜び「損得勘定の智慧5」の続き


何を、誰に、与えるか

人にものを与えるとき、私たちはさまざまなものを与えることができます。お金を持っている人は、それを必要としている人にあげられますし、知識のある人は、役に立つ情報や知識を教えることができます。電車の中で座席を譲ることも与えることですし、町に落ちているゴミを拾ったり掃除をしたりするなら、それはきれいな環境を与えたことになります。健康な人は献血をすることもできるでしょう。病気で体を動かせない人でも、面倒を見てくれる人に対して優しい言葉や気遣いの言葉をかけることができます。これらはすべて与えることなのです。ですから「与える」という善行為は、裕福な金持ちだけでなく、子供でも、お年寄りでも、健康な人でも、病気の人でも、誰でもできる行為なのです。
次に、それを「誰にあげるか」ということも考えなければなりません。自分が与えたいからといって、むやみに誰にでもあげていいというわけではないのです。たとえば砂糖がたっぷり入った甘いケーキを、糖尿病を患っている人にあげても仕方がないでしょう。相手にとっては大変な迷惑です。それでは与えたことになりません。ですから何を与えるにせよ、相手に必要なもの、役に立つものを与えるべきです。この点に、よく気をつけてください。

与えるものは最大に

それから与えるときには、自分にできる最大のものを与えることが大切です。物惜しみをしてはいけません。たとえば人に何か仕事を頼まれたとしましょう。頼まれるということは自分にできるということですから、そのときはいい加減で中途半端にやったり、手を抜いたりしないで、精一杯のことをやってあげるのです。いちばん良いのは、相手が期待している以上のことを行うことでしょう。そうすれば相手は「あなたに頼んで本当によかった!」と喜んで、満足してくれますし、自分も「役に立ててよかった」と充実感を感じることができるのです。
他方、得るものの方は「適量」でいいのです。最大ではありません。なぜなら「得る」ということは「欲」と同じで際限が無いからです。たとえば、いくらお金が欲しいですかと聞かれると、皆さんはどうお答えになりますか? お金が無いときは一万円でいいと言うかもしれません。しかし一万円が手に入ると、今度は二万円、五万円、十万円、百万円……と、どんどん膨らんでゆくのです。結局いくらあっても「もうちょっと欲しい」と望むことになるでしょう。欲にはきりがありません。止まることなくどんどん膨らんでゆきます。しかし不幸なことに、自分が欲するものをすべて獲得するのは不可能です。また、たとえ獲得しても、それは一時的なものですから存続しません。この「欲しいものが手に入らない」ということから生まれる不満感で、私たちはずっと苦しみ続けるのです。
そこで仏教は「得るものは適量」ということを教えています。無制限に「いくらでも欲しい」と考えるのではなく、「自分が幸せに生きるためにはこのぐらいで充分」という適量を計算し、知っておくことが大事なのです。

慢性的受難症

「受難症」という病気があります。現代医学では未だにこの病気を発見していませんが、お釈迦さまは今から約二千六百年も前に、すでに発見されていました。受難症とは仏教で言う「苦」のことです。なぜ私たちは苦しんでいるのかと言いますと、それは少量しか与えていないのに多くのものを得たいと期待しているからです。ろくに仕事をしていないのに「こんな安い給料ではやっていけない、給料をあげてくれ」とか「昇進させてほしい」と文句を言うでしょう。これは受難症です。こう言う人たちに逆にお聞きしたいのですが、あなたはどのぐらい仕事をしていますか、どのぐらい会社の利益に貢献しているのですか、と。自分は少ししか与えていないのに、会社から多くのものを貰おうと期待しても、それは所詮無理な話です。このような不平不満の性格では、一生、苦しむことになるでしょう。
そこで仏教では、俗世間の考え方とは正反対の「与えるものは最大に、得るものは適量を」ということを教えています。これを実践することによって受難症という苦しみが消滅し、満足という幸福が得られるのです。

足るを知る

ある日、お釈迦さまは出家者に、このように教えられました。「病気になったら比丘たちは薬として牛の尿を飲んでください。それが適量です、満足しなさい。もしどなたかに塗り薬や飲み薬を貰ったなら、あなたは余計に得をしているのです」と。出家者は病気になったとき、名医に診て欲しいとか、良く効く薬が欲しいなど、わがままを言ってはなりません。牛の尿で充分なのです。お釈迦さまがそう教えられたのですから、お釈迦さまに対して敬意を払って飲めば、それで元気になると思います。ただ、医学が発展した日本では化学薬品は山ほどあるのに、牛の尿は手に入らないという状況になっていますが―― 。
それから衣についてお釈迦さまは「その辺に捨ててある布切れの縫い合わせで充分です。それで満足しなさい。もし誰かが布を一枚くれたなら、あなたは大変な得をしています」と言われました。食べものについても「托鉢に出かけたとき、信者さんが残りものや要らないものを鉢に入れてくれたなら、それで充分です。もし食事をつくってくれたなら、あなたは大変な得をしているのです」と。住む処についても「枝や葉を屋根にして、木の下で寝ればそれで充分です。屋根のついた家に住むというのは大変なことです」とおっしゃいました。
要するに、お釈迦さまは「必要最小限の生活で満足しなさい」と教えられているのです。これは在家の方も同じです。私たちが「最小限」という限度を知らないかぎり、受難症という病気は治りません。いくらあっても「足りない」と不満を感じ、苦しむことになるのです。
そこで、最小限のもので満足できるように心を育てたなら、他人からほんの少し何かを貰っただけで、楽しい気分になれるのです。不平不満もたちまち吹っ飛んでしまいます。これで人生を楽に過ごすことができるのです

正しい見積書と誤算

幸福の見積書

さて、これまで述べてきたことをまとめながら「幸福の見積書」を作成してみましょう。ポイントは、自分が貰うことでなく、与えることを念頭に置いておくことです。先ず「自分は何を与えることができるか」と考えてください。物でも、お金でも、才能でも、労力による奉仕でも、何でもよいのです。自分が持っているものや出来ることなど、与えられるものを見つけてください。そして次に、それを必要としている人に与えるのです。でたらめに誰にでもあげればいいというわけではありません。相手を選択すべきです。これは誰にとって最大に有効か、役に立つか、ということを考えて、そちらに与えるのです。そして、得るものの方は「適量」というところで満足するのです。これで幸福の見積書は完成です。あとはこれを実践すればいいのです。見積書を作っただけでは幸福になれません。実践を通して初めて私たちは幸福に生きることができるのです。
反対に、幸福の見積書とは逆の行為をしていると、誤算が生じ、苦しみの人生を送ることになります。つまり自分からは何も与えない、貰うことばかり考える、要らないという人に対して一方的に、強引に押しつける、得ているものに満足せず「足りない、足りない」と言って不平不満を抱くことです。

豊かさの悩み

「幸福の見積書」に従って生活していますと、たいていの場合、自分が思っているよりも多くのものが入ってくるものです。つまり仏教的に生きているなら「私は一万円でよかったのに五万円も貰ってしまった、どうしようか」とか「こんなにくれなくてもいいのに」と、貰った給料の一部を返したくなるような、そんな気持ちになるのです。皆さんはこのような豊かさの悩みを味わったことがありますか? 普通は「残業までしたのに一万円しか貰えなかった、やってられない」などと愚痴をこぼすでしょう。これは俗世間の価値観で生きているからです。仏教は、このような不満の状態を逆転させて、満足だけの生き方を教えているのです。そのためには、先ほど作成した「幸福の見積書」を実践することです。
(続きます)
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アルボムッレ・スマナサーラ長老法話
文:出村佳子

2012/09/05

与えることの喜び 5

仏教の会計学「損得勘定の智慧 4」の続き


到達点は「与えるだけ」


前回説明した五つの勘定の仕方のうち、五番目の「与えるだけ」の道について少々付け加えておきたいと思います。この与えるだけという生き方は悟った人の生き方だから自分には関係がない、といって無視してはいけません。これは私たち誰もが到達すべき最終点であり、そこに行き着くまで努力しなければならないのです。仏教では「与えることは善行為の始まりである」と説いています。善行為をすれば因果法則によって必ず幸福になれるのです。ですから自分の心にある「欲しい、貰いたい」という暗くて重い欲望を少しずつ減らしてゆき「与える」ということを実践してみてください。心は次第に明るく軽やかになるでしょう。これが幸福に生きるための正しい勘定の方法なのです。

価値はどうやって成り立つか?


何かを与えるとき「価値」はどのようにして決まるのでしょうか? 与える人が決めるのですか、それとも受ける人が決めるのですか? それは受ける側で決まるのです。たとえば母親が自分のネックレスを娘にあげるとしましょう。「これは結婚のときにプレゼントされた大事なネックレスで、大変高価なものです」と、自分で価値を入れても意味がありません。貰う側の娘が価値を入れるのです。「このネックレスはクラシックで、おしゃれだ。すごく気に入った」と喜ぶなら、それには価値があるということになりますし、逆に「これは太くてダサい。誰もこんなものは付けないよ」と喜ばないなら、それには価値がないということになるのです。
また、絵画や陶芸などの芸術品を売買するときにはオークションを行うことがあります。そこでは買う側が価値を入れて値段を決めるのであって、作品自体には何の価値もありません。たとえば、ある絵画を見てAさんは「百万円で買う」と言うかもしれませんし、Bさんは「千円でも買わない」と言うかもしれません。このように価値というものは買う側、受ける側で成り立つのです。いくら素晴らしいものでも高価なものでも、貰う人が必要としなかったり興味を示さないなら、それには何の価値もないのです。

板切れ一枚の価値


普段は何の役にも立たない、価値のない板切れでも、場合によっては巨大な価値を持つこともあります。お釈迦さまの前世物語として有名な「ジャータカ」には次のようなエピソードがあります。ご紹介いたしましょう。

菩薩は、ある商人として生まれました。大金を儲けなくてはならないということで、知人といっしょに舟に乗って商売に出かけました。その途中、ひどい嵐に出会い遭難してしまったのです。頭が鋭い菩薩は舟の中にある荷物をサッサと捨てて、舟から板を剥ぎ取り、それを持って海に飛び込みました。そして板の上に身体を乗せて水の流れに流されていたのです。そうすると、もう一人の男が海に流されているのが見えました。男は何もつかまるものを持っていません。菩薩は「この人はもうすぐ溺れて死ぬだろう。俗世間で儲けようとすると、こういう災難にも遭うのだ。私は修行中の身である。商売をしているのは生活するためであって、私の本職は波羅蜜を完成して悟ることだ。今は自分の波羅蜜を完成するチャンスだ。この人を助けよう。しかしこの板切れ一枚に二人は乗れない。板をあげれば自分が溺れて死んでしまう。この人が今までに何か私を助けてくれたことがあれば、それを理由に、この板をあげられるのだが」と考えて、菩薩は過去を振り返ってみました。しかしこの男は何も菩薩にしてくれたことがないのです。ただ、一つだけこのような出来事を思い出しました。

以前、この男が旅に出かけたとき、菩薩もいっしょに行きました。男は三人分ほどの弁当を持っていましたが、菩薩は突然出かけたので何も持っていませんでした。しばらく歩いて食事の時間になると、男は自分の弁当を開けて一人でパクパクと食べはじめました。菩薩が弁当を持っていないのを知っているにもかかわらず、何も分けてあげません。一人分だけ食べて残りはとっておき「では、行くぞ」と歩きはじめるのです。普通なら弁当を持っている人が持っていない人に分けてあげるでしょう。しかしこの男は菩薩に何もあげません。しばらく歩いて、また食事の時間になると、そのときも自分の分だけ食べて残りはとっておくのです。菩薩は喉がカラカラに渇き、腹も空いていました。ところで、インドでは食後に口直しとして小さな葉っぱを噛む習慣があります。葉っぱに何かを付けて噛むと、口の中がスッキリして爽やかな気分になるのです。脳にも信号が行きますから頭もしっかりします。そこで菩薩は、葉っぱはお金がかかるものではないから「その葉っぱを一枚くれませんか」とお願いしました。すると男は「葉っぱ一枚」と嫌な顔をして、一枚あげるのではなく、葉っぱを半分に切ってそれをあげたのです。男があげたのは葉っぱの半分だけ。そのぐらいケチでわがままな人だったのです。

そこで、いま海で遭難しているときに、菩薩はこのことを思い出しました。「この人は以前、私に葉っぱの半分をくれたことがある」と。そして男に「あなたはろくに泳ぐことでもできないようですから、やがて溺れて死ぬでしょう。私は過去、あなたにお世話になったことがあります。以前、いっしょに商売に出かけたとき、あなたは葉っぱの半分を私にくれました。ですから私は恩返しをしなくてはなりません。これを使ってください」と言って、自分が乗っていた板切れを男に差し出したのです。

このような崇高な行為ができるのは菩薩であって、一般の私たちにはとうていできることではありません。普通、板切れというものには何の価値もありませんが、このエピソードのように、海の中で遭難しているときの価値はどうかと考えますと、それは命と同等の価値があるのです。正しく計算するなら、男は一円もしない板切れを貰ったのではありません。「命」を貰ったのです。

このように価値というものは、貰う側で成り立つのであり、時と場合によって大きく異なってくるのです。

個人的な話しになりますが、ときどきスリランカから「お金を送ってほしい」という手紙が私のところに届きます。ある人は「家を直したいがお金がないから十万円ほど送ってくれないか」と言うのです。家を直したいというのは、ただ格好つけて贅沢に暮らすためのものでしょう。その人に十万円送ってあげたとしてもほとんど価値がないと思います。だってわざわざお金をかけて家を直さなくても、今のままで十分に生活できるのですから。また、ある人は「自分は学生で勉強しているが授業料が払えなくなってしまった」とか「教科書を買いたいから一万円送ってほしい」と書いてあるとします。その場合、私はすぐにお金を送ってあげるのです。なぜかというと学生にとって勉強や本はすごく役に立つものです。知識を学び、技術を習得し、仕事を得て、一生食べていけるようになったなら、その子は一生自立して暮らせます。それには一生分の価値があるのです。このように、価値というものは受ける側の使う目的によっても異なるのです。

与える喜びを味わう


私たちは人に何かモノをあげた後に「損した」とか「もったいない」という惜しい気持ちが生まれることがあります。なぜこのような感情が生まれるのかというと、たとえば自分の部屋にテレビがあるとしましょう。でも仕事が忙しくてなかなか見る暇がありません。そこで友だちが「そのテレビをくれないか。代わりにソファーをあげるから」と言いました。友だちがすごく欲しがっているので「しょうがないな、持って行け」と言います。でも後になって「ああ、損した」と後悔する可能性もあります。ソファーは別にあってもなくてもいいものですが、テレビは毎日見なくても、ときどきは見ますから、自分にはまだ必要なものなのです。この「まだ自分に必要」というときに「損した」という感情が出てくるのです。

しかし、価値というものは受ける側で成り立つのですから、実際、与える側には損も得も関係ありません。それなのに、いったん手放したものに執着して悔やんだりすると、それは悩みの種になって苦しみが増えるだけです。友だちが喜んでいるなら、それでよいのではないでしょうか。世の中は「与えて得る」というギブ・アンド・テイクのシステムで成り立っているのですから、何らかの形で自分が与えなくてはならないのです。それならば、悔やんだり悩んだりしないで「人の役に立ってよかった」と与えた喜びを味わい、充実感を感じながら生きる方が「得」なのではないでしょうか。
(続きます)
アルボムッレ・スマナサーラ長老法話
文:出村佳子

充実感こそ最高の財産


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月例講演会(浅草かやの木会館)での講義を編集しました。