2019/08/07

価値と執着

「慢」とのつきあい方②-1
つづき
私たちは何にでも価値を付けたがります。自分だけでなく、何にたいしても価値を付けたがるのです。価値を付け、そして対応します。これが人の基本なのです。

いつでも、どんなものにも価値を付けたがります。簡単に言えば、値札を付けるのです。

ときどきガラクタのようなものにも「骨董品」とか「美術品」として何百万円、何千万円もの高価な値札を付けています。そしてそれを保存するために、美術館の頑丈なガラスケースに収め、空調までコントロールして、相当なお金をかけて大事に扱っているのです。


反対に、「価値がない」と見ると、それにたいして無関心になります。たとえば、道路に1円玉が落ちているとしましょう。このとき、「1円玉が落ちている」と思うかもしれませんが、1円玉に価値は入れていませんから、だいたいは無視して通り過ぎていきます。


でも、もし1万円札が落ちていたらどうするでしょうか? 足が止まるのです。


動物園にはさまざまな種類の動物がいます。なかでもパンダの人気は高く、多くの人がパンダを目当てに集まってきます。パンダを見るために、長い列に並んで、順番を待たなくてはなりません。見えたとしても防弾のガラス越しでしか見ることができず、近づくことは禁止されています。


一方、パンダと身体の形や大きさが似ているクマにたいして関心を持つ人は、それほどいないようです。私たちはクマにたいしてあまり価値を入れていないのです。


このように価値の付け方によって、対応がずいぶん違ってきます。私たちの対応は、対象にどのような価値を付けるかで変わってくるのです。






ガラスの破片か、ダイヤモンドか?


価値を付けることで、私たちの執着の強度が決まります。道路に落ちているのが1円玉か1万円札かで、執着の強度が異なり、対応が変わるのです。


同じキラキラ光るものでも、それが「ガラスの破片」か「ダイヤモンド」かで、対応が変わります。ガラスの破片だったら、マイナスの価値になります。マイナスの価値を付けて、行動します。「危ないから早く処分しよう」と何か行動するのです。


もしそれがダイヤモンドだったら、対応は別です。別の行動をとるのです。このように、執着の強度によって私たちの対応が変わるのです。

そこで、執着するのは私たちが価値を入れたときです。価値は好きなもの(プラス)であっても、嫌いなもの(マイナス)であっても、執着です。どちらも執着なのです。




A. スマナサーラ長老 法話
Patipada(パティパダー)根本仏教講義
価値と執着(慢とのつき合い方②-1)



☆慢とのつき合い方


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