死を理解できませんが、変化していることなら、ある程度はわかります。
変化の過程を観察するならば、死という概念を理解することができるのです。
ここで問題としているのは、「他人が死んだことがわからない」ということではありません。
自分以外の生命(現象)の死はわかりますが、それにたいする態度は様々です。
親しい生命の死は、なにか間違いが起きたような、あってはならないことがあったような感情を引き起こします。
ゴキブリ、蚊、害虫などの死ならば喜びます。
カツオ、サンマ、ニワトリの死は、当然起こるべきことなのです。
そのような態度なら、他の死を理解しているとは言えません。
人にとって一番大事なことは、自分の死を知ることです。
自分の死を知ることで、心が汚れなくなるのです。
心が安穏になるのです。
問題は、他の死さえ自分の主観で、自分の都合で観察しているから、自分自身の死を観ることはできない、という事実です。
それだけではなく、「私は死なない」という幻覚を前提にして、人生の計画を立てているのです。
それで、自分の死を認めると何もできなくなるのです。
自分の死を知るとは、その人に智慧がある、ということです。
自分の死を、俗世間のレベルで理解することはできません。
(続きます)
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スマナサーラ長老 法話「ほんものの恐怖とは?」
文:出村佳子
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生きとし生けるものが幸せでありますように