相手に理解できるように話す「ブッダの聞き上手入門 ③-3 からの続き
固定にならない固定概念
面白いことに、固定概念は固定していません。人の考え、先入観、固定概念は固定してないのです。
実は、固定概念をよく自分でバージョンアップしているのですが、それに気づくためには時間がかかります。
我々は、自分の固定概念をずっとバージョンアップしているのです。しかし、自分がバージョンアップしていることには気づかないんです。
時間が経ってこのように言います。「むかしはこのような考えがありました」「価値観はむかしと違って変わりました」「前の性格は違っていました」などと。それは固定概念をバージョンアップしたという意味です。
固定概念はある日突然、バージョンアップしません。日々じわじわと、生きている過程で変わっていくのです。私たちは固定にならない固定概念にハマって、頑固になっているだけです。いつでも何かしらの固定概念があるのです。
バージョンアップしていない場合には、やがてその人の人格が壊れます。
例えば、今はWindows10を使えますが、バージョンアップしなければ、使えなくなって捨てる羽目になります。それでも、バージョンアップしたくないという人もいます。
Windows の古いバージョンは古いPCで使えますが、サポートは一切ありません。ウィルスの攻撃を受けたり、ハッカーの攻撃を簡単に受けたり、データを盗まれたりします。それから、新しく開発される便利なアプリをひとつも使えなくなります。
人が自分の固定概念をバージョンアップしなかったら、生きる化石のような存在になります。
私たちは自分のフォーマット(固定概念)に適合する話だけ、心にインプットします。バージョンアップしたからといって、そんなに驚くことではないんです。話を聞く場合は自分のフォーマットがありますから、それに適合するものだけを受けとるのです。
例えば、ヨーロッパの子供たちはあまり信じていないんですが、日本の子供たちはサンタクロースがいると信じています。成長するにつれて、それがどんどんバージョンアップして、サンタクロースはいないということがわかるんです。でも、バージョンアップしない子供もいます。
我々がなぜ学校で学ぶのかというと、自分の固定概念をバージョンアップしなければならないからです。
先入観のことを仏教では偏見と言います。偏見の反対は正見です。ですから、先入観の反対は、正見です。人は徐々に学んで正見に達しなくてはならないのです。
我々は何を知っても、それは偏見です。眼・耳・鼻・舌・身・意で完全に知ることはできないのです。偏見しか作れません。
例えば何かを見る。全体的に見えません。眼がどんなふうに見るのか、脳がどんなふうに処理するのか、それは個人の世界なんです。
花を見て「これは花です」と言う場合は偏見なんです。正見ではありません。別の見方で見てみようと言っても無理でしょう。鳥の眼で花を見ましょうと言っても無理なんです。
ですから我々の知識世界、知る世界はすべて偏見です。そこで我々は何をやっていますか?
学校に行って勉強をして、いろいろな本を読んで、私たちはよりよい偏見を作っているのです。子供のときは絵本を読んで偏見を作ったんです。
その偏見は学校に行ったらなくなります。それより文字やイラストがいっぱい入っている本を読んで、ベターな偏見を作ります。
中学生になったら、小学生とは違う偏見になります。
知識を増やすと言っているのは、偏見を入れ替えていることなんです。だから、偏見そのものが間違っているのではありません。これは人間が生得的に持っている性格です。仏教は正見を推薦していますから、それに偏見と言っているだけです。そのように理解すれば、落ち着いていられます。
花を見て、ある人はキレイと言い、別の人はキレイではないと言う。別にそれでいいでしょう。それぞれが生得的に持っている偏見だから仕方がない。ケンカする必要も、気持ち悪くなる必要もまったくないのです。頑張って、偏見を正見に変えましょう。
(続きます)
生きとし生けるものが幸せでありますように
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スマナサーラ長老 法話「ブッダの「聞き上手」入門」
文:出村佳子
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