仏教的ビッグバン「自由への突破口①-5」からの続き
渇愛によって執着が起こる
渇愛が生じると、執着( upādāna )が生じます。
これです。これが束縛なんです。もう逃げられません。渇愛から、執着が生まれます。これが今回のテーマとなるところです。
パーリ語では Taṇhā paccayā upādānaṃ と言います。
渇愛によって執着が生じます。執着が生じると、もう自由はありません。束縛されています。
犯人は、この渇きです。束縛の原因は渇愛なのです。
ですから束縛が嫌だと思うなら、渇愛とは何かを学び、それをなくさなければなりません。
渇愛をなくすと、束縛が消えるのです。
いま説明したところが、仏教の最も重要なところです。
渇愛を制御する
目があると、否応なしに目に情報が触れます。これはどうしようもありません。制御できません。
耳があると、音が触れます。否応なしに感じます。誰もストップできません。
しかし、それなりの訓練、理解能力、智慧があれば、渇愛が起こらないようにすることはできます。簡単ではありませんが、渇愛は制御できるのです。
渇愛が生じたとき、執着しないようにするのは不可能です。もっと食べたい、もっと飲みたい、もっと見たい、もっと聞きたいという渇愛を持ったまま、世の中への束縛を捨てることは、ありえない話です。
ですから、「もっと欲しい」という渇愛を制御しなければならないのです。
仏教以外、世の中で誰ひとり、このことを調べようとしません。仏教の場合も、お釈迦様の教えを実践する人以外は興味がありません。みな、渇愛を強める方向で生きています。
死後、永遠の天国に行けるとか、必ず極楽浄土に往生するとか、あるいは、皆もともと覚っているから修行しなくてもいいとか、渇愛がどんどん強化する方向に話し、渇愛を弱める方向にはいかないのです。
みな流れに身を任せて生きています。どんな流れかというと、渇愛の流れです。悩み苦しみの流れに身を任せて生きています。
仏教は、逆の方向に泳いで早く岸に上がりなさいと教えているのです。
(続きます)
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文:出村佳子
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生きとし生けるものが幸せでありますように