3種類の渇愛
渇愛を分析すると、三種類になります。
一番目は、物が欲しいという渇き。「眼耳鼻舌身意」に触れる「色声香味触法」を欲しがることです。この渇きは消えません。
二番目は、生きていきたいという渇き。存在欲のことです。
生きることは瞬間の出来事ですから、いくらやっても、また頑張らなくてはいけません。絶えず頑張らなくてはいけないのです。
この存在欲は、決して消えません。
80年間生きていても、「生きていきたい」という欲が増えるのであって、減ることはありません。
死が近づいてくると、存在欲がものすごく強くなり、
それを「死ぬのは怖い」「死にたくはない」という言葉で、みんな表しているのです。
「死ぬのは怖い」と、実感として堂々と言うのですが、誰もそれは「心にある渇愛(存在欲)」であることに気づかないのです。
「死ぬのは怖い」と実感すると、在欲が強くなります。
存在欲が増えるだけで、減ることと弱くなることは、自然の流れでは起きません。
三番目は、非存在欲です。ちょっと人生を見てみたら、嫌で嫌で納得がいきません。
そこで、「もっと面白くて楽しい人生はないのか」と探す人もいますが、逆に「こんなの嫌だ、きれいさっぱり処分したい」と思う人もいます。
その「嫌だ」という気持ちが、非存在欲です。これも渇愛なのです。
ときどき私たちには、「これさえなければいいのに」「あれさえなければいいのに」という気持ちが生じるでしょう。
あれが非存在欲の仲間です。
これら三種類の渇愛について、明確に理解する必要があります。
むずかしいかもしれませんが、わざと話をややこしくしているわけではありません。
この説明は、仏説の中心的なポイントである「受によって渇愛が起こる」という言葉にかかっているのです。
この一行は、解脱を目指す人々にとって、この上ないキーワードです。
ビッグバンから宇宙があらわれたように、仏教の教えも、涅槃も、解脱も、「受によって渇愛が起こる」というところから始まるのです。
これが仏教的なビッグバンです。
「受によって渇愛が起こる」というビッグバンから、輪廻という宇宙が生まれて回転するのです。
(続きます)
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文:出村佳子
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生きとし生けるものが幸せでありますように