③ 儀式・儀礼・行への執着(戒禁取)
sīlabbatupādānaṃ
これはよく調べて理解しないと、気づきにくい執着です。
儀式・儀礼が好き?
「儀式・儀礼・行などへの執着(戒禁取)」は、②の「見解への執着(見取)」よりも強い執着です。
お釈迦様は、執着は4つあると教えました。
この4つはすべての人にあるものです。ですから「私には①の五欲への執着と②の見解への執着はあるけど、③の儀式・儀礼・行などへの執着はない」と言うことはできません。4つともあるのです。③は、①と②よりも強いのです。
しかし、私たちは自分のこころに、この執着があることに気づきません。
自分は自由な人間だと勘違いしている人も結構います。「私はしきたりなんかはやらない」と言っていますが、あれは勘違いなのです。なぜなら、脳はマンネリや習性が好きだからです。人間は脳で生きています。脳はマンネリが好きなんです。マンネリで生きているなら、混乱しないで、判断に悩むことなく、怠けて活動することができるのです。
たとえば、皆様、会社からいきなり南アフリカに転勤するよう命じられて、退職するまでそこで生活するようにと言われると、困るでしょう?
やっぱり日本の生活に慣れているんです。あのマンネリを変えたくないのです。まったく違う生き方はしたくありません。それは誰にでもあります。脳は怠けたいのです。すべてオートパイロット状態にして、怠けたいんです。問題は、怠けると脳が退化してゆくことです。
もちろん、すべて無常ですから、なんでもかんでもオートパイロットでできるわけではありません。でも、脳はオートパイロットが欲しいのです。
たとえば、手がかゆくなったら、なんのことなく掻きますね。マンネリで掻いているのです。だから、かゆくなったとき、「左手のこの部分がかゆくなりました。では右手をあげて掻きましょう」とはしません。もう条件反射で掻いているのです。
そこで、「なんで手を掻いているのですか?」と聞いたら、「かゆかったから」と答えます。
脳の中はほとんどオートモードになっています。それで、ヴィパッサナー瞑想ではそのマンネリを、できるだけ手動モードにしようとしています。それで脳が開発するのです。
私たちの人生は、さまざまなしきたり、習性、決まり、規則、儀式、儀礼などでいっぱいです。
宗教に限っていません。会社や学校でも儀式儀礼があります。朝礼とかで、皆で何か項目を読みあげたりしているでしょう。
以前、アメリカのオバマ元大統領が日本を訪れたときのことです。日本の政府は必死になって、オバマさんに国賓として来てほしがったんです。オバマさんは時間がありませんから自分の仕事だけしてさっさと帰りたかったのですが、日米関係のことも考えて、それを認めたのです。
来日したとき、国賓儀礼をテレビで見ましたが、出迎えの儀式や挨拶など、あの時間はまったく無駄ですね。完璧に儀式でしょ。それも派手にやるんだから。あの時間で大事なディスカッションでもすれば役に立つでしょう。しかし、儀式ばかりです。
会社、学校、国会、神社、お寺、同窓会、婦人会、忘年会、新年会などなど、なんであろうとも、儀式やしきたり、習慣で固められています。取り除くと、いったいどうすればよいのか分からなくなるのです。夕方、何人かが集まったら、みんな何をしたらよいか分からなくなって固まります。そこで、「とりあえず乾杯しましょう」という儀式をおこなうのです。
誰かを祝うための乾杯ではなく、単なる儀式だけです。人間とは、儀式儀礼しきたり習慣などで動くようにプログラムされているようです。人間は儀式が好きなのです。
教育と稽古
人は教育や稽古を通して大人になっていきます。生まれたら、社会に適応しなければなりません。ですから教育や稽古をしなくてはいけないのです。そこで、正しい教育と稽古の結果として、生まれてきた人が一人前の社会人として成長するのです。
それだけではありません。一般人として流れに身を任せて生きるのではなく、立派な人格者に成長したければ、それにも教育と稽古が必要です。
教育の大事なポイントは、物事のありさまを理解することです。
稽古の大事なポイントは、何かを知ったからといって人生はうまくいかない、と理解することです。飛行機の操縦の仕方に関する膨大な資料を読んで科学理論を精密に理解しても、飛行機の操縦はできません。稽古が必要です。
しかし、教育や稽古の場合も、③の戒禁取(sīlabbatupādānaṃ)が割り込む危険性があります。
学生が物事のありさまを理解しない場合は、とりあえず暗記して憶えておきなさいと言う。また、言うとおりにしなさいと言う。
軍人の場合は、命令に従いなさいと言う。
文句を言わず、学校の規則を守りなさいと言う。異論を立てたり、文句を言ったりする若者を強引に抑えておく。決まり・しきたりに、それなりの理由があることを教えてあげないのです。
書道の塾に行ったら、学生に筆の正しい使い方を教えます。このとき自分勝手な使い方をすると、なめらかで美しい字は書けないという理論を教えてあげる必要があります。その理解がない場合は、学生の心に一つのマンネリが現れるのです。
私たちは、戒禁取を作らずにいられないような罠にはめられています。人間なら社会に適応するために教育と稽古が必要です。これは、儀式・儀礼・マンネリを叩き込まれる場にもなるのです。
マンネリを禁止したら、不安になる
マンネリやしきたりを禁止したら、人は不安になります。生きていられなくなります。
たとえば、お客さんを晩御飯に招くとしましょう。もし何かマンネリがなければ、家に来たとき、どうすればいいのかわからなくなります。ですから儀式をつくるのです。お客さんが来たらまず、「いらっしゃい」と言って、家の中に招きます。スリッパを出して、部屋に案内し、「ここに座ってください」と座る場所を指定します。それで奥さんは台所に行って食事の準備をし、お客さんは案内された部屋で待っています。台所に行って食事の準備をすることはしません。
それで食事を食べるときには、日本だったら、「いただきます」とか「乾杯」と言って食べ始めます。
このように、しきたりは決まっています。
皆が乾杯しているところで、私はやりませんよと腕組みをしていたらどうなりますか?
いやな顔をされるでしょう。ですからそこには自由がありません。しきたりや決まりがあるのです。
もし、このようなしきたりがなくなると、人はどうすればよいのか判断できなくなります。人間の脳には、その場その場ですぐに判断できる能力はありません。それで、しきたりをつくるのです。挨拶にも、しきたりがあります。しきたりさえ守れば落ち着くのです。
そういうわけで、しきたり、習性、儀式、儀礼、行などがなければ、私たちは不安で生きていられません。ですからどこにでも必ずしきたりがあります。国が共産主義であろうが、無宗教の国であろうが関係なく、しきたりはあるのです。麻薬のように、儀式に依存して生きています。
古いしきたりはなくなりますが、代わりに新しいしきたりや決まりをつくって、それらに依存します。たとえば江戸時代のしきたりはもうありませんが、江戸時代よりも現代のほうがマンネリは多いのです。今は携帯のマンネリやマナーまでつくらなければいけませんから。
なかでも、人々を戒禁取に閉じ込めることにおいて、宗教は常習犯です。宗教の世界では、精神的に優れた人間を育てる目的はさらさらなく、しきたり・習慣・儀式などで固まってロボットのように動く人間を育てるのです。神を信じる宗教があります。
証拠なく何かを信仰する時点で、戒禁取です。その神に祈りなさいと言う。しかし、自分が好きなように祈ってはいけません。宗教組織が作った、祈りの仕方があるのです。讃美歌を歌ったり、儀式的な懺悔をしたり、秘跡(サクラメント)を受けたりしながら、神に祈るのです。
仏教の世界でも、宗派ごとに違ったしきたり習慣を真剣まじめにおこなっているのです。教えを理解することは二の次です。
ヒンドゥー教では、褌一枚だけで生活する人、身体に灰を塗りたくって裸で生活する人、頬に金属の串を貫通させている人、舌を串刺しにしている人、立ったままで座らない人、如何なる場合でも他人と喋らない人などがいるのです。
一般人は皆簡単に、これらの行者をサードゥ(聖者)と呼ぶのです。心の状況はどうであってもよいのです。サードゥの集まりの前に、もし心を清らかにした人がふつうの服装をまとって車から降りたならば、聖者の間に失礼な人が割り込んだことになるのです。
山に隠れている人、冬でも薄着で生活する人、山で拾ったものを食べ、料理したものを決して食べない人なども、行者(聖者)として崇められます。これらはすべて、戒禁取のしわざです。
聖者か否かは、心が汚れているか否かの問題なのに、外の殻で判断しようとすることが戒禁取です。何かの行をおこなえば、神と一体になるのだと信じて、そのとおりに生きている人は、戒禁取の罠に引っかかっています。時間が経てば経つほど、心が自由になるどころか、自分の行に執着するはめになるのです。解脱に達することができなくなるのです。
(続きます)
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文:出村佳子
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