我語取「自由への突破口③-7」から続きます。
自我の錯覚が消えても、自分という実感はある
では、覚りの第1ステージの預流果に達して、「自我はない、実体はない」ということがわかったとします。有身見も消えています。でも、自分という実感はまだあるのです。執着①の欲取は減っていますが、微妙に残っています。
たとえば、「なんとしてでもおいしいものを食べたい」という気持ちは消えて、「まー何か食べれればいい」という気持ちなのです。
自分という実感は、一来果、不還果、阿羅漢果に達するごとに消えていきます。阿羅漢に達しない限り、完全には消えません。ですから、この執着はものすごいたちが悪いのです。
預流果に達した人はヴィパッサナー瞑想をもう一度最初からスタートしなければなりません。あのプログラムを全部最初からやって、2番目の覚り(一来果)に達します。そうすると、怒りと欲が薄くなり、自分という実感も少し薄くなります。
さらにヴィパッサナーを実践して、3番目の覚り(不還果)に達します。ここで怒りと欲が消えます。しかし他に残っている煩悩があります。
4番目の覚り(阿羅漢果)に達したところで、煩悩が全部消えるのです。
本当はそんなにたくさんの煩悩が消えるのではなく、消えるのは一個だけです。「無知」です。根元から「無知」が消えるのです。このようにして、自分という実感が消えていきます。4番目の覚りに達しないかぎり、自分という実感はあるのです。
執着①の欲取はサマタ瞑想をすることでログアウトできますが、執着の①〜④までなくすには、それだけでは無理です。ですから、執着をなくして自由になることは、私たちが思っているほど簡単ではありません。これは Paññābhāvanā、vipassanā という瞑想実践です。
瞑想といっても、宗教でいう瞑想とは異なります。科学的に観察することです。脳のオートパイロットを一旦停止させて、手動で脳を動かしてみるのです。それだけです。それで成長するのです。
(続きます)
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法話:スマナサーラ長老
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文:出村佳子
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