我論への執着「自由への突破口③-6」から続きます。
無我
無我を言葉で説明すると、パラドックス(逆理)になります。
覚った人が自我を実感したとしましょう。しかし、実感とは自我です。前提的に「自分がいる」というスタンスが必要なのです。
ですから、無我に達する境地は、言葉の説明範囲を超えているのです。
それで、お釈迦様は「我取」ではなく、「我語取」という言葉を使用されたのです。
これは、認識の問題でもあると思います。
「あれは花です」という認識フレーズを考えてみましょう。「あれは花です」と言うために、それをそのとおりに認識する人が必要です。
「一切の現象は無常です、苦です、無我です」という仏教の真理を理解するときも、同じ問題が起きます。そのとおりに理解する人が必要です。
「真理は無常・苦・無我に限りますよ」と明確に理解して力説する人も、無我に達していないのです。なぜならば、その人はそのとおりに認識しているからです。
ものごとを認識することは、生命の基準です。生命を定義するならば、「認識能力がある物体」と言わざるを得ないのです。認識能力=生命です。
最終解脱である阿羅漢果に達する人は、認識そのものの束縛も破るのです。
認識機能が無ければ、その生命体が何者かと説明することは不可能です。
これが、我語取の無くなった状態になります。
要するに、俗世間的・出世間的・粗雑な・微細ないかなる認識であっても、その認識機能の裡に「我――認識する主体」が必要になります。
ですから、覚りに達した人は、決して「私が覚りました」と言えなくなるのです。その発表をするためには、「我」というスタンスが必要になるからです。
わかりやすく、このようにしましょう。
生命に認識能力がある限り、認識能力を使って生きている限り、同じ認識能力を使って修行に励む限り、我語取が働いています。
すべての認識次元を超えて、認識という saññā(想)も消えて、言葉の使用範囲も消えた状態に達した人だけ、我語取から解放されているのです。
自我の錯覚があらゆる苦を作る
自我の錯覚があるから、さまざまな問題が起こります。憂い、悲しみ、悩み、苦しみが生じます。煩悩が生じます。論争、戦い、争い、武器を持つこと、戦争が起こります。搾取、奪い合いなどが起こるのです。
我論への執着は、最強の執着です。これが一番強い執着であり束縛なのです。
(続きます)
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法話:スマナサーラ長老
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文:出村佳子
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生きとし生けるものが幸せでありますように