「私」とは誰か?② からの続き
考えてみれば、生きることは大変です。次々に現れる「私」の中から、ある特定の「私」の肩を持たないといけないのです。 それをしないでいると、悪いことをしたくなったら悪いことをする、善いことをしたくなったら善いことをする、人を怒鳴りたくなったら怒鳴る、褒めたくなったら褒める、盗みたくなったら盗む、盗んだ人を裁きたくなったら裁く、という具合に、その瞬間の自分が望むことをやってしまうはめになるのです。それでは、とても生きていけないでしょう。
ですから、どうしてもある特定の自分の肩を持たざるを得ないのです。例えば、善い自分という「私」を見つけたら、その善い自分の肩を持ってなんとか生きようと頑張るのです。困ったことに、悪い自分も無数に現れます。そちらの肩を持ってしまうと、結果として悪人や犯罪者になってしまう。こうした内なる争い・せめぎあいによって、私たちはかなり危険な状態にいるのです。
一人の人間の中で数多くの自分が戦っている。数多くと言いましたが、仏教心理学では数を計算しています。仏教では「自分」を数えているのです。一般人にはこれは無理な仕事です。現代の科学者や心理学者にも「自分」の数は数えられません。仏教では科学的なアプローチを使って分類します。アビダンマでは心所と呼ばれる心の成分が五十二あると教えていて、その一個一個が「自分」にあたるのです。
例えば〈欲〉という心所がある。それも一つの自分なのです。〈怒り〉という心所があります。それが働くと怒る自分という「私」が現れます。それぞれの自分は組織を作って働きます。一人一人の自分には力がないので、いくつかの自分のグループを作って生き残ろうとするのです。〈欲〉という自分は単独では行動しません。いくつかの自分とグループを組んで、他の自分組織を攻撃しようとする。そうやって複数の自分が色々なグループを作って行動するのです。
どんな「私」も正反対の「私」に支えられている
皆様が瞑想実践に取り組む時は、 「幸せで安楽な素晴らしい私」を作りたいと思って頑張っています。しかし、科学的に考えれば、その自分は相対する「不幸で最悪でダメな私」がいなければと成り立たないものなのです。
そういうわけで、先回りして仏教の最終的な答えをあえて乱暴な言葉でいえば、「強力なバーナーでも持ってきて〈すべての自分〉を焼き殺してしまえ」ということになるのです。すべての自分を焼き殺した後には、もう言葉はありません。なぜならば、言葉と一緒に自分がいるのですから。
例えば、「憎む自分」が活動するためには、反対の「優しい自分」がいないといけないのです。人を憎む場合は、憎む自分が優しい自分を踏みつけて、行動できない状態に抑えているのです。殺人犯などは、すごく残酷なことをしますが、一旦法律で裁かれて刑を終えると優しい人間になったりします。まるっきり違う自分になってしまって、生命を心配する自分に変わっているのです。それってどういうことなのでしょうか?
俗世間、娑婆社会にいた時は、激しい怒り、嫉妬、憎しみ等あれこれ出てきて優しい自分を踏みつけて、犯罪を起こしてしまった。それで逮捕されて裁判を受け、刑に服している間に、徐々に気持ちが変わって「これはマズイ」と考えるようになる。それで、今度は踏みつけていたほうの自分を育てるのです。怒り憎しみの自分の代わりに、優しくて思いやりのある自分を育てることに励むのです。しかし、そうやって優しい自分を育てたからといって、その人がもう安全だと太鼓判を押すことはできません。自分の中には、犯罪にひかれる自分もそのままいます。その自分は、いまは一時的に負けて、抑えられて、大人しくしているだけなのです。
そのように、たくさんいる自分は決して死なないのです。死なないのは仕方がありません。もしも反対の自分がいなければ、もう一人の自分も成り立たないのですから。ある「私」が「私」であろうとする限り、それ以外の内なる自分を踏みつけなくてはいけないのです。
自我はない
というわけで、問題を根本的に解決したければ、自分など無いほうがいい、という結論になるでしょう。それで戦いは終わるのです。自分・私というものがいるならば、それはどんなものでも潜在的に危険なのです。ですから、我々が抱いている自我意識というものは恐ろしく危険なのです。これはありがたがって育てるものではありません。本物の自我を見つけようという宗教的なアプローチは、とても危険なのです。
そもそも、「絶対的に変わらない自分がいる」という話は初めからおかしいのです。なぜならば、明らかに瞬間瞬間、自分は変わっているのですから。瞬間で違う自分になったのも、何らかの戦いの結果なのです。相異なる自分同士が戦って、殺し合いをやって、誰かが勝っただけなのです。だから「絶対的に変わらない自分」という代物はいないのです。それなのに様々な宗教では永遠不滅の自分、魂とか真我とかがあると教えている。どこまでアベコベかと呆れてしまいます。
戦いは終わらない
はっきり言えば、たくさんの「私」の戦いは終わりません。ずーっと戦い続けるしかないのです。でも、戦いは楽しくないでしょう。誰だって、自分の気持ちを抑えた経験はあるはずです。あれって、かなり苦しいことでしょう。それが悪の気持ちであれ、善の気持ちであれ、どうでもいいのです。他の「私」を抑えるためには戦い続けなくてはいけない。
卑近な喩えを出すならば、自分の子供が何かに失敗したとします。とっさに怒鳴りたくなって、怒りが込み上げてきます。そこで、ぐっと自分を抑えて、怒鳴らないで、怒らないで、どうやって子供にこれをやる方法を教えようかと考える。それって苦しいのです。「こらっ、何やってるんだ、このバカ!」と怒鳴ったほうが楽なのです。
そういう時には、「感情に負けたら結果がまずい」と思う自分がたまたまいて、そちらが「戦うな!」と命じるのです。正確には、「そんな自分ではダメだ。そいつを潰してしまえ」と言うことです。怒りが込み上げてきたら、「怒りの自分を抑えつけろ」と命令する。そうすると別の自分(心所)に頼んで、戦わせなくてはいけない。だから、気持ちを抑えたときは苦しみを感じるはずなのです。「よかった、私は感情を抑えたぞ」と自慢はできない。それなりに苦しみを感じていますから。
というわけで、「私」同士の戦いというのは微妙なものであっても苦しいのです。しかし、それが生きるということだから、結局、生きることは苦しいのです。決して楽にはなりません。 私たちが気づきの瞑想で教えているのは、「その状態を無くせ」ということです。要するに、自分たちの戦いを発見しなさい、ということなのです。
(続きます)
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法話:スマナサーラ長老
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文:出村佳子
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