2024/10/12

「私」とは誰か?②

 「私」とは誰か?① からの続き


無数の私が争っている        

私たちが生きているということは、瞬間瞬間に「実感」が起きているということです。それは誰にでも明確に理解できると思います。それからさらに、その実感はどういうものか、どのようにしてその実感が現れるのか、実感は本当にずっと変わらないものなのか等と、いろいろ調べていくことができます。やがて頭の中で実感に「私」という主語を入れることが無くなったら、そこから真理の世界に入ることになるのです。

普段は何も考えずに「私」とか「自分」とか言っていますが、よくよく観察すると「私・自分」とは一つの塊ではないのです。一つの絶対に変わらない塊が続いているのではなく、その都度その都度、頭のなかに無数の私、無数の自分がとめどなく現れるのです。そのポイントを理解してください。

例えば、今、私が喋っています。皆様の心のなかに「聞いている自分」がいます。隣には「聞かない自分」もいるでしょう。人によっては「私の言葉に反論する自分」もいる。「何を言っているのか理解できない自分」もいるでしょう。いろんな自分が一緒に共存しているのです。

これは一般論ですが、私が皆様に向かっていくら喋っても、皆様の心にはいっこうに入らないようです。

それは皆様に記憶力がないせいではないのです。皆様の頭の中には、話を聞いている自分と、聞いていない自分と、話を無視する自分と、反論する自分と、過去や将来のことを考えている自分と……そういう様々な自分がひしめき合っています。だから、「話を聞こうという自分」には、なかなか出てくる隙間がなくなってしまうのです。

皆様の頭の中に、そうやってたくさんの自分がいて、お互いに殺し合いを演じています。でも、いくら殴り合ってもお互いに死なないのです。結局、骨肉の争いはいつまでも終わりません。心の中では、ずっとそのような争いが起きているのです。




「私」同士の争いは勝敗がはっきりしない


人が悪事をはたらくときには、悪いことをしたい自分がいます。やったらマズイ、バレたらやばい、とビビっている自分もいる。そして、そいつらが殺し合いを始めてしまうのです。どちらの自分が負けたかによって、結果が出てくるということです。善いことをしようと思っても、やめなさいという自分が一方にいる。勝った方が結果になります。人生はそういうカラクリなのです。

ときどき凶暴な自分が牙を剥く場合もあります。その場合は精神的な病気というべきでしょう。例えば、人々を憎む自分がいる。他人を排除する自分がいる。そういう自分が強くなって、他の自分を圧倒したらどうなりますか? 完全な病気です。

ふとしたきっかけで、「オレはすごく弱いんだ」という弱気な自分が大きくなることがあるでしょう? そうなると、自分はダメなやつだ、何をやってもうまくいかない、と落ち込んで引きこもってしまいます。反対に、我を張る自分、オレは偉いと誇示する自分が大きくなる場面もあるのです。その自分が主導権を握ると、「自分は弱気ではない、オレはいつでも完璧だ」と虚勢を張るのです。

そうやって、特定の自分がいつでも優勢になるケースは実は稀です。一般の人々は脳内で戦争ばかりやっていて、勝ち負けが明確にわからない状態が続いているのです。そういう曖昧で煮えきらない心が、一般人の心なのです。


好みの「私」を強化したがる


曖昧で煮えきらない心を持つ人々は、決してそれで良いとは思っていないのです。終わらない内戦状態の自分を変えて、はっきりした自分を確立したいと願うのです。そこで、自己啓発セミナーとか瞑想会とかに参加して、はっきりした自分を確立してもらおうとするのです。そうすれば上手くいくと思っているのです。そこにも落とし穴があります。そういう人々は、自分が選んだいくつかの自分を強くしたいと思っているのです。明るい自分もいるでしょう? 人間というのは明るくなるときもあります。

その自分をとことん強くしてもらおうとするのです。弱気の自分と殺し合いをやっているのは強気の自分ですから、その強気の自分を勝たせてやろうとする。無数の自分の内戦を終わらせて、ひいきの自分たちに勝利させようと応援するのです。そのために色々なところに出かけて、宗教組織に入ったり、何かを信仰したり、アメリカで流行っているマインドフルネス瞑想でもやってみようかなと思ったりするのです。


どんな「私」も反対の私に支えられている


残念ながら、そのような試みは決して成功しないのです。いかなる自分も、それと反対の自分がいないと成り立たないからです。それがわかっていないから、皆様の努力は無駄に終わるのです。たとえば、「暗い自分を排除して、明るい自分をしっかり育てたい」とか、「弱気の自分を排除して、強気の自分を育てたい」とか、「落ち込みがちな自分を排除して、活発な自分をつくろうではないか」とか、そう思うことも無知なのです。無知にもとづく行為は必ず失敗します。

あらゆるものは、反対のものがないと成り立たないのです。美しいという概念は、醜いという概念がなければ成り立ちません。悪いという概念は、善いという概念がないと成り立たないのです。「これが良い」と言うためには、頭の中に「悪い」の「イメージが必要なのです。あの人はすごく善い人です」と他者を評価する場合に、自分の頭の中で悪い人のイメージがなければ、どうやって善悪を判断できるでしょうか? そのように、あらゆる現象はそれと対立する現象がなければ成り立たない性質を持っているのです。N極とS極がなかったら磁石は成り立ちませんね。それと同じことです。


(続きます)


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法話:スマナサーラ長老

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文:出村佳子

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