2012/09/02

人生はモノの流れの交差点 2

損のない生き方「損得勘定の智慧 1」の続き


損得を勘定する人は「得」をする



自分の損得を勘定する人は、相手の損得も勘定することができます。
ですからその人は、相手の気持ちが理解できる、自我を張らない善い人間になります。
それから、財・知・人の三つの分野で得をするのです。財というのは財産や金銭、物のこと。知とは知識のこと。人とは人間関係のことです。損得を勘定する人は「どうすれば役に立つか」とか、「自分や皆にとって何が得か」ということを常に考えて行動しますから、その生き方は有効的で友好的なものになり、他人にも好かれ、人気者になります。他人の甘言に騙されて悔しい思いをすることもありません。

世の中には「悪い行為をすれば損をするし、善い行為をすれば得をする」という因果の法則があります。損得を勘定する人は、この法則をよく理解して、人を助けたり親切にしたりなど、常に善い行為を実践しようと努めます。結果として、その人の人生は人格が向上する方向へと赴き「得」に溢れる人生になるのです。


損得を表すさまざまな言葉



さて次に、言葉の面から損得について考えてみましょう。
日常生活の中では「損・得」「出る・入る」を言い表すために多くの言葉が使われています。
たとえば「出る」という言葉を表現するのに日本語にはさまざまな言葉があります。「寄付する」ことも「出る」という意味なら「攻撃する」ことも「出る」という意味です。しかし同じ「出る」ということを表していても意味が全く異なるのです。「寄付する」には善い評価が含まれますが「攻撃する」には悪い評価が含まれています。このように言葉には人の感情や評価が含まれているのです。他にどのような単語があるのかいくつか挙げてみましょう。

出て行くもの (output)



中立的な語
感情や評価がほとんど含まれない中間的な語――送る、話す、放す、渡す、あげる、送信する、提供する、発表するなど。


積極的な語 
「善いことした」と胸を張って評価している語――布施する、寄付する、慈しむ、援助する、支援する、応援する、助言するなど。


消極的な語 
「悪い」という否定的な評価が含まれている語――殴る、蹴る、攻撃する、押し付ける、撒き散らす、放言する、垂れ流す、漏洩するなど。


入って来るもの (input)


中立的な語
得る、貰う、聞く、飲む、食べる、吸う、取り入れる、集める、受信するなど。


積極的な語
習得する、受理する、頂戴する、歓迎する、受賞するなど。


消極的な語
奪う、盗む、貪る、搾取する、横領する、掻き集めるなど。



ここに挙げた語はほんの一例です。私たちは日常生活の中で常に「出る・入る」の生き方をしていますから、他にもたくさんの言葉があります。それは私たちが感情で評価して区別している分だけあるのです。


人生は流れの交差点



これから説明するポイントは少々難しいかもしれません。法則についての話しです。
「生きる」ということは、モノを「与えて得る」という交換の連続なのです。私たちはこの世に生まれた瞬間から死ぬ瞬間まで、入る(input)と出る(output)の流れの中で生きています。外からモノを入れて自分の内から何かを出す。酸素を入れて二酸化炭素を出す、ご飯を食べて栄養を摂取し、体力などで出す、この流れの連続です。一部が入り一部が出る、この交差点に私たちは「自分」と名付けているのです。ですから「自分」とは、何の実体もない、何の存在価値もない、ただモノが出入りするだけの一時的な「交差点」にすぎないのです。



それなのに私たちは「自分がいる、私は偉い」と勘違いしています。ちょっと高価なモノを与えると「私は偉い、他の人とは違う」と自慢する気持ちが生まれてくるでしょう。たとえば頭の中でいろいろ想像を巡らせて小説を執筆し、それがベストセラーになって有名な賞を受賞したとします。そのこと自体には何の問題もありません。問題なのは「私は○○賞を受賞した立派な人間だ。偉い人だ」と、とんでもない妄想を働かせることなのです。仏教から見れば、その作家はあちらこちらから情報を掻き集め、それに少々手を加えて、新作と称して外に出しただけなのです。作家だけでなく、芸術家も、科学者も、政治家も、どんな人も、このように「入れる・出す」の機能しかやっていません。この機能が「生きる」ということなのです。



これはちょうど「物々交換をする場所」のようなものです。昔の人たちは木の下や広場、道路の脇などで、各々が所有するモノを持ち寄って、物々交換をして生活を営んでいました。その場所は、単に「モノを交換する場所」であって、特別に「立派な場所」ではなかったのです。「私」というものも、いろいろなモノが行き来し、出入りする場所にすぎません。もし高価なモノを持っているなら「あちらに行けば良いモノが手に入る」と人々の間でちょっと評判が良くなるぐらいのことで、その場所自体には何の価値もないのです。



このように「私」または「存在」というものは、さまざまなモノが行き来する交差点であって、そこに実体はありません。ですから「得した」といって舞い上がることもありませんし「損した」といって落ち込む必要もないのです。しかし私たちはいつでも損得に惑わされて苦しんでいます。でも考えてみてください。「得した」といって何に喜ぶのでしょうか? あるいは「損した」といって何に落ち込むのでしょうか? 自分というものは単なる交差点にすぎないのですから、損得に左右されて一喜一憂し、心をかき乱すべきではないのです。



たとえば、ある物々交換の場所に、Aさんは着物を、Bさんは大根を持ってきたとします。二人は互いに自分の持っているモノを交換しました。後になってAさんは「私の大事な着物を大根なんかと交換して損した」と後悔するかもしれません。確かに着物の方が大根よりも高価でしょう。でも悔しがる必要はないのです。なぜなら自分というものは単なる交差点にすぎないのですから。着物が出て行き大根が入って来たといっても、交差点にとっては損も得も関係ないのです。何度も言いますが「私」というものは物々交換の場所なのです。この因果法則の真理を理解できれば、私たち穏やかで気楽に生きることができるでしょう。



しかし損得は無視できない


これまで、自分というものは単なる交差点だから何が出入りしても冷静に落ち着いていましょうという話しをしてきましたが、これを実践できるのは法則を理解した賢者のみです。実際のところ私たちは無知ですから、そのように落ち着いていることはできません。では、どうすれば良いのでしょうか?


知者は正しく損得勘定をする


「知者」というのは私たち、つまり普通の人間のことです。私たちは先ず理性を育て、ものごとの損得を正しく勘定することを学ばなければなりません。損得というと私たちはすぐに金銭や物品のことを思い浮かべますが、それだけでは足りません。知識、情報、技術、人間関係、道徳、人格などいろいろあります。あらゆる損得を考慮して、勘定しなければならないのです。たとえば情報を得るときには、何でも鵜呑みにするのではなく、「これは良い情報か、悪い情報か」「役に立つか、役に立たないか」と計算してみるのです。人と付き合うときも「この人は道徳的な人か、そうではないか」「この人と付き合うと損するか、得するか」というように、日々の生活の一つ一つの損得を理性的に勘定することが大切なのです。これができれば「損」をして落ち込んだり苦しんだりすることはありません。

それから「得」をしたいからといって、他人の財産を盗んだり、奪ったり、騙し取ったりと、不正的な手段を使ってはいけません。他人に迷惑をかければ必ず自分が損をします。自分の感情をコントロールして、他人にも自分にも損害を与えないように気を付けなければならないのです。

また、自分の知らないことは、真理を知っている賢者に聞いてアドバイスを受けることも大切です。
このように理性を持って損得を勘定するなら、損の無い有意義な人生を送ることができるでしょう。


(続きます)


アルボムッレ・スマナサーラ長老法話
文:出村佳子


2012/09/01

『マインドフルネス』気づきの瞑想


マインドフルネスー気づきの瞑想


本書が出版されてから 20年が経ちました(現在では30年近く)。

そのあいだに 「気づき(マインドフルネス)」が、現代の社会や文化のあらゆる領域――教育・心理療法・芸術・ヨーガ、医療・急速に進歩する脳科学などの分野――にますます影響を与えています。

そして、ますます多くの方がさまざまな目的で――ストレス軽減や心身の健康増進、円滑な人間関係の構築、よりよい仕事のためなど――人生をより有意義にすごすために「気づき(マインドフルネス)」を求めています。

その目的がいかなるものであれ、本書をお読みなる皆さんが幸せへの道を見いだせることを心より願っております。
―バンテ・H・グナラタナ

◆世界で読みつがれるヴィパッサナー瞑想の最良入門書


マインドフルネス(ヴィパッサナー、気づきの瞑想)の実践入門書として、米国で出版以来20年以上にわたり読みつがれ、世界15カ国で翻訳されているロングセラー。

仏教の知識がなくともわかる平易な言葉で、ヴィパッサナーを実践するために必要な情報を余すところなく伝え、確かな評価を得ている。

ラリー・ローゼンバーグ(『呼吸による癒し』著者)や、ジョン・カバット・ジン(マサチューセッツ大学医学部名誉教授)など多くの瞑想指導者、医師、実践者が絶賛してやまない名著。本書は、2011年に発行された最新エディションの日本語版である。


◆帯文(アルボムッレ・スマナサーラ長老より)

世界の瞑想指導者たちのトップリーダーが語る、
気づきの実践方法です。
西洋人に語りかけたこの本は、瞑想に興味のある方々に刺激を与えるに違いありません。
著者は気づきの実践について一流の研究者でもあります。

 関連記事 ➡ マインドフルネス



マインドフルネス 気づきの瞑想 グナラタナ著 出村佳子訳
バンテ・H・グナラタナ 出村佳子訳
サンガ 2012-08-23
楽天ブックス

損のない生き方 1


損のない生き方「損得勘定の智慧 1」

「入るもの―出るもの」と言えば、皆さんは何を思い浮かべるでしょうか?

お金なら収入―支出、プレゼントなら貰う―贈る、会話なら聞く―話す、知識なら学ぶ―教える、情報なら受信する―発信するなどいろいろあるでしょう。私たちの日々の生活は、このように「入る―出る」の関係で成り立っています。そして人生を幸せに、賢く生きるためには「何が入り、何が出たか、どのくらい入り、どのくらい出たか」とモノの出入りを冷静に勘定して、管理することが大切なのです。

これから数回にわたって「損―得」「出る―入る」「与える―得る」をキーワードに、お釈迦さまの損得勘定の智慧を学んでみましょう。

因果法則に見られる give & take


生きる上で「損か、得か」と勘定することは必要でしょうか?


一般的には「損得を計算して行動するのは利己的で意地汚い」と思われているようです。そう思うのは、世の中の仕組みを理解してないからです。実際のところ、私たちは「損得」を考えずに生きていられません。なぜなら人間関係というものは、基本的に「損得」の関係、あるいは「与えて得る」という関係で成り立っているからです。英語ではこれをgive& take(ギブ・アンド・テイク)と言います。仏教から見ればgive & get(ギブ・アンド・ゲット)と言う方が正しいのですが、ここでは皆さんが聞き慣れているギブ・アンド・テイクを使って話しを進めることに致しましょう。


このギブ・アンド・テイク(与えて得る)という関係は普遍的な法則です。人間関係だけでなく物質の世界でも、自分から何かを与え、相手から何かを獲得して成り立っています。たとえば鉄は空気中の酸素に触れることによって錆びます。鉄は酸素の電子を受け取って安定し、酸素は鉄に電子を与えることによって安定する。互いに「やり取り」を行って、それぞれが安定して成立しているのです。このように、物質も、人間も、一切のものが、相互に「与えて得る」という関係で成り立っています。これは宇宙の法則であり、仏教の因果法則の一部なのです。

それでは「与えて得る」の働きが、私たちの日常生活の中でどのように行われているか、具体的な例を挙げて説明してみましょう。

① X >Y(XがYより大)の場合、X→Y または X←Y


XとYは人を指しています。XはYよりもモノをたくさん持っているという状態です(X>Y)。このときモノを多く持っているXが、少しか持っていないYに「与える」「行く」ということが起こります(X→Y)。


逆に、XはYから「取る」「奪う」「貰う」ということも起こるのです(X←Y)。矛盾に思われるかもしれませんが、実際の社会を観察してみますと、金持ちは貧しい人からお金を奪っているのではありませんか? 資本家は労働者を不当に安い賃金で雇用して、長時間働かせることによって「搾取」したり、あるいは労働者がちょっとミスをしただけで給料を減らしたりすることもあるでしょう。これは給料を「奪う」という意味でもあります。頭だけで考えれば「ある人」が「ない人」に与えることが当然だと思われますが、現実の世界では逆の方向に流れるケースも少なくないのです。親子関係においても、親が子供に与えるだけというケースはほとんどありません。子供は親に対して、喜びとか楽しみなど多くのものを与えているのです。

② X=Yの場合、「合併」または「分離」


 XとYが同等のレベル(X=Y)の場合、二つは合併するか、または分離するという関係です。「合併する」というのは、たとえば夫婦が共働きで二人とも同程度の所得があるとしましょう。新しい車を一台購入することにします。しかし一人分の貯金では中古車しか買えません。そこで双方が「合併」してお金を出し合って新車を買うといった関係です。


また「分離する」とは、たとえば兄弟姉妹というものは、たいてい小さい時は同じ部屋で勉強したり遊んだりと仲が良いものです。でも二人とも成長しますし、それほど年齢の差もありませんから、思春期頃になると姉は「私の部屋に入らないで」と弟を追い出し、弟も「お姉ちゃんといっしょの部屋はいやだ」と言って出て行くのです。つまり姉と弟は同程度の力であり、二人の間に反発力が働いて「離れる」ということが起こります。これは決して喧嘩したという悪い意味ではなく、自然の法則なのです。

③X・Yの場合、X―Y


 次はXに有るものが(X)Yには無い(Y)という状態です。この場合、YはXから無いものを「貰い」、XはYに「分けてあげる」という関係が成り立ちます。たとえばXとYが二人でどこかへ出かけました。Xは弁当とお茶を持って行きますが、Yは近くの店でお茶を買うつもりで弁当だけを持って行きます。ところが現地に着いても店はなく、お茶を買えませんでした。結果として、XはYにお茶を「分けてあげる」ということが起こるのです。

④XとYが結合してZになる


異なる二つの性質のもの(XとY)が結合して、別のもの(Z)になるという関係です。たとえば物質の世界では、水素原子と酸素原子が結合して、別の性質である水になりますし、政治の世界でも、ときどき異なる二つの党派が結合して、新しい政党を組織することもあります。

⑤ (XーaとYーb) で (X+bとY+a) の関係


この関係を考えてみましょう。たとえばコンビニへ弁当を買いに行きます。弁当を買えば自分の財布のお金は減ります。(X=自分、a=お金で、Xーa)。またコンビニの弁当も一個なくなります。(Y=コンビニ、b=弁当で、Yーb)。換わりに自分はコンビニの弁当を得て(X+b)、コンビニはお金を獲得します(Y+a)。この関係は、自分が持っているものを出すことによって相手のものを得る、というギブ・アンド・テイクの関係です。


そしてこの時に「損した、得した」という問題が生じるのです。コンビニで六百円支払って弁当を買いましたが、隣のスーパーに行くと同じ弁当が五百円で売っていました。そうするとたいていの人は「損した」と感じるでしょう。ここで損得の問題が成り立つのです。比較しなければ損でも得でもなく、この弁当は六百円だと落ち着いていられますが、比較したとたんに損得の感情が生まれるのです。このように損か得かの感情は比較をした結果、生じるものなのです。

損をしない生き方を


以上、考察したように、私たちは生まれた瞬間から、この世を去る瞬間まで「与えて得る」の人生、または「損得」の人生を生きています。


人間関係は「損得」の原則に基づいて成り立っているのであって、損得を抜いた「美しい人間関係」という綺麗事はありえないと言ってもよいでしょう。この事実をよく理解することが大切です。

つまるところ、自分が他人と仲良くしているのは、その人から何かを得たいからであり、また他人が自分に接近しているのは自分から何かを欲しがっているからなのです。これは自然の法則です。何も得るものがなければ近づく必要はありません。得るものがあるからこそ、私たちは他人と仲良くして、付き合っているのです。

この損得のシステムをよく理解して、私たちは「損をしない生き方」を選択することが大切です。「損」をするだけでは自分がいずれ壊れてしまいます。だからといって、不正的な手段を使ってまで「得」することだけを追い求めていると、今あるものも失って、やがては貧困に陥る羽目になります。ギブ・アンド・テイクの原理は宇宙の法則ですから、悪い行為をすれば必ず不幸になるのです。

では、どうすれば損のない生き方ができるのでしょうか?

それには悪の道を避け、生き方を改良し、法に適った正しい生き方を営むことです。

損得勘定をしない人は「損」をする


次に、損得勘定に無頓着で無関心でいるとどうなるかを考えてみましょう。


自分の損得を勘定できない人は、他人の損得も勘定できません。ですから、自分のことしか考えられず、他人とうまく付き合うことができない自己中心的な性格になります。疑い深く、他人を信頼できず、優柔不断で、人に何か頼まれても「自分にはできない」と引きこもったり、「私はダメな人間だ」と自信を失ったりしがちです。また口のうまいセールスマンに「これはお買い得の商品ですよ」と勧められると、自分に必要かどうかは計算せずに、すぐさま飛びついて買ってしまい、お金を浪費することもあります。

このように損得勘定に欠落している人は、損ばかりで得することがありません。「得る」ということは、たとえ額に汗して努力しても簡単なことではないのです。お金もそうでしょう。得るには大変な苦労を要しますが、無くなるのは簡単です。損得の勘定をせずに、曖昧で、いい加減に生きている人は、得るものがなく損だけの人生になるということをここで覚えておいてください。
(続きます)

アルボムッレ・スマナサーラ長老法話

文:出村佳子