2019/09/01

自我の値

「慢」とのつき合い方②-2
つづき
執着するのは私たちが価値を入れたときです。価値はプラスであってもマイナスであっても、執着です。どちらも執着なのです。

たとえば、公園で捨てネコを見つけたとしましょう。捨てネコですが、こちらに寄ってきて、なきながら手をなめたりすると、「なんてかわいいか。でも首輪がない。かわいそうに。捨てられたんだ。家で飼ってあげよう」と、プラスの価値を入れますそれで家に連れて帰り、エサやミルクをあげ、かわいがるのです。


そのネコが、机の下で毛を立てて威嚇しています。ヘ
ビがいるようです。さっきネコを家に入れようと玄関の
ドアを開けたとき、知らないうちにヘビも1匹入ったよ
うです。

ヘビを見た瞬間、私たちはすぐに価値を入れます。かな
りのマイナス価値を入れるのです。「かわいい」ではな
く、「怖い」というマイナス価値を入れるのです。



プラスの価値もマイナスの価値も執着


この場合、ヘビにたいしては執着していないのでしょう
か?

しています。「マイナスの価値」を入れて執着しているのです。
このマイナスの執着によって、「ヘビを追い出そう」と必
死で頑張ります。何か行動するのです。

ネコを見たときも、「かわいい、連れて帰ろう」と行動します。行動させたのは、私たちの価値であり、執着です。ヘビが机の下でとぐろを巻いているのを見ても、行動します。それも、執着です。

ですから価値がマイナスであろうとプラスであろうと、関係ありません。価値を入れたら、執着し、どんな程度かと決め
ているのです。

このように私たちは、まずモノを測り、それから価値を入れて執着します。普段は気楽に生きているような気がしますが、誰も気楽に生きているわけではありません。瞬間瞬間、測って価値を入れ、執着しているのです。



究極の価値


なかでも究極の価値を入れているのは、「自分」や「自
我」にたいしてです。世の中には価値の高いものがいろ
いろあります。ダイヤモンドや金、油田などはものすご
く価値が高いですが、それより高い価値を付けているの
は「自分」です。私たちは何よりも、自分にたいして高
い価値を付けているのです。

たとえば、ある油田の所有者が、「あなたに油田の株の
30パーセントをあげます」と言うとしましょう。ただ
し、「1週間後に死んでください(あげた油田の
株は子供や他の人に譲ることはできません)」と言われ
たらどうするでしょうか?

誰でも「結構です」と言うでしょう。でも油田の株の
30パーセントというと、1日だけでも収入は膨大で
す。ですが、それでも自分の命のほうが大切なのです。

このように、私たちは自分にたいして究極の価値を付
けています。究極の価値を付け、自分は世界一だと考え
ています。それでそこからさまざまなトラブルや苦しみ
が生まれているのです。

実際の世界でも何かで世界一になると、それからは大変です。誰かが必ず挑戦してきますから。これはスポーツの世界で明確に見ることができます。世界戦で日本のチームが優勝したとしましょう。この優勝というものはあやふやなもので、持続しないものなのです。すぐに他国のチームが敵意を燃やして挑戦し、その座を奪い取ろうと狙ってくるのです。

世界一のタイトルは、奪い取られるものです。いつでも狙われるものなのです。このタイトルを獲得した瞬間から、もう大変です。舞い上がって浮かれている暇などありません。状況はこれまで以上に困難で厳しくなるのです。

そこで、私たちは誰でも自分にたいして世界一の価値や究極の価値を入れています。それで否応なしに他の人から攻撃を受ける羽目になるのです。自分以外の大多数の生命が、自分も世界一になろうと挑戦してきます。「勝とう、勝とう」と必死ですから、自分も他人も常に測らざるをえない状態です。このように、私たちの人生は「測りっぱなし」なのです。

したがって、自分という存在に究極の価値を付けることによって、人生は大変な苦しみに陥ります。価値さえ入れなければ、苦しみは生じないのです。(続きます)


A. スマナサーラ長老 法話
Patipada(パティパダー)根本仏教講義
自我の値(慢とのつき合い方②-2)


☆慢とのつき合い方


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