2022/12/01

四聖諦:四つの聖なる真理 ①「アチャン・チャー法話」

 

アチャン・チャー法話
32)四聖諦―
―四つの聖なる真理 ①


一九七七年、イギリスのカンブリア州、マンジュシュリー協会で説いた法話。


さて、私は長年ブッダの教えを説いてきましたが、私も私なりにいろいろ苦労を重ねてきました。現在、私の僧院ワット・パー・ポンの別院が四〇ほどありますが、今日になっても、瞑想を学びに来る人のなかには教えるのがむずかしい人がいます。


瞑想法を知っていても瞑想しない人もいれば、瞑想法を知らないだけでなく、見いだそうともしない人もいます。このような人にたいして、私はどうすればよいのかわかりません。


どうして人はこうなのでしょうか? 無知でいることはよいことではありません。そのように話しても、いっこうに耳を傾けません。これ以上、私に何ができるでしょうか。


人は瞑想に関して疑念でいっぱいですし、いつでも疑念を抱いています。みな涅槃(Nibbāna)に達したがっているものの、涅槃への道を歩きたがらないのです。私が瞑想するよう話をすると、いやがってやらないか、瞑想中、居眠りをします。たいてい私が教えていないことをやりたがるのです。


以前、瞑想の指導者たちにお会いしたとき、皆さんのお寺の修行者はどうですかと尋ねたところ、同じですと答えました。これは指導者であることの痛みでしょう。





今日は「今生で、いま問題を解決する方法」についてお話ししましょう。


ときどき「仕事が忙しすぎてダンマを実践する時間がない。どうすればいいですか?」と質問する人がいます。私はこう答えます。


「瞑想することは、呼吸をするようなものです。人は仕事をしているときも呼吸をし、眠っているときも呼吸をし、座っているときも呼吸をしています。呼吸をする時間があるのは、呼吸が大事なものであることを知っているからです。同様に、瞑想が大事なものだと理解できれば、瞑想する時間が見いだせるでしょう」


皆さんはこれまで苦しみを経験したことがありますか? 楽を経験したことがありますか?


まさにここが真理であり、ダンマを実践しなければならないところです。


楽を感じるのは誰ですか?

心です。


苦を感じるのは誰ですか?

心です。


楽や苦の感覚がどこで生じようと、生じたところで消えるのです。


では、感覚を引き起こす原因は何でしょうか?


これが私たちの問題です。そこで、「苦」と「苦の原因」と「苦の滅」と「苦を滅する道」を理解することで、問題を解決することができるのです。


苦には二種類あります。「普通の苦」と「特殊な苦」です。「普通の苦」とは、現象の本質としての苦しみで、立っていることが苦だとか、座っていることが苦だとか、横になっていることが苦だといった苦しみのことです。


ブッダでさえ、この苦しみがありました。楽や痛みも経験していましたが、ブッダは「感覚はすべて自然の現象である」と理解していたのです。感覚の本質を理解し、その自然な感覚―いわゆる「普通の苦」を乗り越える方法を理解していました。それで感覚に悩まされなかったのです。


重要なのは、二番目の苦です。この苦は「特殊な苦」で、「普通の苦」以外の苦のことです。


病気になったとき、医者に注射してもらうこともあるでしょう。注射針が肌に刺さると、チクリと痛みを感じます。これはごく自然な痛みです。針を抜けば、その痛みは消えるでしょう。これは「普通の苦」で、別に問題はありません。誰もが経験することです。


これにたいし、「特殊な苦」は、現象への執着(upādāna)から生まれる苦です。これは毒の入った注射針で注射するようなもので、もはや普通の痛みではなく、死ぬほどの痛みを感じるのです。


「一切の現象は無常である」と知らないこと(邪見)も、もうひとつの苦です。現象は、輪廻(saṃsāra)のなかにあります。何かにたいして「変わってほしくない」と考えると、必ず苦しみが生じます。「身体は私だ」とか「私のものだ」と考えていると、身体が病気になったり老いたりしたとき怖くなるでしょう。


たとえば何かをなくしたとします。それにたいして「私のものだ」と考えていると、悩みが生じます。「なくしたものは現象であり、自然の法則に基づいているものだ」と見なければ、苦しみが生じるのです。


呼吸を見てください。もし息を吸っても吐かなければ、生きていられるでしょうか? あるいは吐いても吸わなければ、生きていられるでしょうか?


このように、どんな現象も自然に変化しています。これを見ることが、無常を見ることであり、ダンマを見るということです。私たちは無常のなかで生きています。この無常という現象の本質をあるがままに理解したとき、苦を乗り越えることができるのです。


ダンマを実践するとは、ものごとのありようを正しく理解すること―つまり正見を育てることです。正見があるとき、苦しみは生じません。反対に、正見がなく、間違って理解しているときは、世の中に抗がい、真理にも抗うでしょう。


たとえば病気になって入院しなければならなくなったとき、「死にたくない」「治りたい」と考える人がほとんどです。これは間違った思考で、苦しみをもたらします。


そうではなく、「治るときは治るし、治らないときは治らない。死ぬときは死ぬ」と考えるべきです。これが正しい思考です。なぜなら私たちは病気や老い、死をコントロールすることはできないからです。このように正しく考えれば、治るか死ぬかに関係なく、間違った道には行きませんし、悩むこともないでしょう。


「なんとしてでもよくなりたい」とか「絶対死にたくない」と考えることは、現象とはどのようなものかを理解していないということです。


そうではなく、「病気が治るなら、それはそれでいい。治らないなら、それもそれでいい」と考えてください。この場合、ものごとをあるがままに見ていますから、間違った道にはいきません。


ブッダはこのことを明確に見ました。ブッダの教えは真理であり、時代遅れになりません。


真理はけっして変わらないのです。このブッダの教えを心に深く留めておくことによって、心はやすらぎ、幸せがもたらされるのです。

(続きます)


・・・・・・・・・・・

アチャン・チャー法話集

The Four Noble Truths

翻訳:出村佳子

アチャン・チャー関連記事:

 『智慧への道』気づきと正知による心の観察

 アチャン・チャー



生きとし生けるものが幸せでありますように