2023/04/30

宗教のあやまち2-①

    

差別社会の中で生まれた仏教来たれ見よ1-①からの続き

 2 対機説法

宗教のあやまち

仏教以外の宗教は、社会の差別制度のことを説き、「なぜ差別があるのか」ということを解明しようとしていました。そうすると、ある宗教と別の宗教の説明に違いが生じてきます。

たとえばバラモン教は、

「世の中に差別があるのは、ブラフマという神が人間社会に四つのカーストをつくったからだ」

と説きました。


他方、バラモン教に反対していた別の宗教は、

「そうではない、世界は流転している。流転していると、いろんなところに転がる。宇宙も生命も転がって、いろんなところに、知らないところにも転がる(輪廻する)。奴隷に転がることもあれば、バラモンに転がることもあり、王様に転がることもある。死んだらどうせまたどこかに転がるのだから、今、自分が置かれている立場や地位、境涯はどうということはない」

と教えていました。彼らは「流転」という概念を信じていたのです。


また、ジャイナ教では、生物だけでなく、植物や山、川など地水火風すべてのものに魂が存在すると考え、その魂にいろいろな物質が付着することによって形態や身体が形成されると考えています。

たとえば、魂にゾウの物質がくっつくとゾウになり、アリの物質がくっつくとアリになるというように。

そこで苦行をして、魂に付着する原因となる業をなくしていくことによって解脱することができる、というのです。


来たれ見よ(Ehipassiko) :誰でもチャレンジできる仏教実践


このように仏典によると、当時六十二種の宗教哲学があったと言われています。

神の概念、魂の概念、業とは何か、定めとは何か、輪廻とは何かという哲学。唯物論や道徳論、時間論など、たくさんの宗教哲学があったのです。

さらに、時間論を説く人の中でも、時間は有限だと言う人、無限だと言う人、時間は存在すると言う人、存在しないと言う人など、同じ時間論の中でもさまざまな意見に分かれ、互いに論争していたのです。


そこで私が言いたいのは、どの意見が正しいかということではなく、宗教家たちは、時間が存在するかしないかとか、魂があるかないかという問題で大騒ぎし、研究したり、考えたり、論争したりして、忙しかったのです。


それで結局どうなったかというと、宗教の目的から脱線し、「宗教は何のためにあるか」という宗教の本来の役割が分からなくなったのです。

時間が存在するかしないか、魂があるかないか、それは大きいか小さいかを解明するのに忙しいものですから、そちらを考えなくてはならなかったのです。


たとえばバラモン教では、「魂は親指ぐらいの大きさで、心臓の中に存在している」と主張していました。

その論に対して別の宗教は、「親指ぐらいの大きさのものが心臓にあるなら、心臓を切れば確かめることができる」と反論します。

そうするとバラモンはさらに、「魂は人間の目には見えないから、心臓を切っても我々には見えない」と言い、それに対して反論者はまた何か言うのです。


そういうことで忙しくて忙しくて、いったい宗教って何のためにあるのかということが分からなくなり、宗教が本来やるべき仕事をやらなくなったのです。


これは現代社会に生きる私たちにとっても同じことで、余計なことばかりに気がとられていると、本来やるべき大事なことがおろそかになり、ひどい結果になり得ます。

たとえば、家庭の主婦(主夫)が社会活動などに忙しくて家のことを何もやらなくなる、ということがあるでしょう。

料理はしないし、掃除もしないし、子供の面倒も見ない。

結果として、家庭はめちゃくちゃになるのです。本来やるべき仕事をやらないからです。


(続きます)


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来たれ見よ (Ehipassiko) :誰でもチャレンジできる仏教実践

法話:スマナサーラ長老

文:出村佳子

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生きとし生けるものが幸せでありますように