「来たれ見よ:誰でもチャレンジできる仏教実践」はじめに からの続き
1 仏教は平等である
来たれ見よ
これは仏教の有名なスローガンです。パーリ語では、Ehipassiko。
いわゆる仏教は世間の人に向かって自由に話しかけています。
すごい教えだから信じなさいと強引に押し付けるのではなく、ちょっと試してみたらいかがでしょうか、見てみたらどうでしょうか、という自由な態度をとっています。
誰が来て、何を調べても、こちらは大丈夫です、というかなり強気の態度でもあります。
誰でも "Come and See" 来て見てください。どうでしょうか、と。
教えには自信がありますし、万が一欠陥があるということはありません。
それで、これはどういう意味なのかと話を進めていきたいと思います。
差別社会の中で現れた仏教
なぜ仏教は "Come and See" 「誰でも来て見てください」と言うのでしょうか?
それは仏教が 「平等の概念」を持っているからです。
では、平等とはどういう意味でしょうか?
仏教は差別が激しい社会のなかで現れました。
お釈迦さまの時代、インド社会にはひどい差別があり、裕福な人は極端に豊か、貧しい人は極端に貧しかったのです。
金持ちは地方一つぐらいの土地を持っていましたし、貧しい人は何も持っていませんでしたから他人の土地を借りるか、奴隷として生活するか、あるいは路上で生活しなければなりませんでした。
このようにインド社会には激しい差別があったのです。
宗教にも激しい差別がありました。
とくにバラモン教は極端に差別主義で、
「バラモン教という神の教えは、バラモン人だけの特権であり、一般人には知る権利がない。だからヴェーダ聖典を読んではならない」
と言い、すごく差別をしていました。神にお供えすることは、バラモン人以外の人にはできないのです。
今の時代でもこれは変わらず、もしインドに行く機会がありましたら試しにヒンドゥー寺院に行って、「お供えをしたい」と言ってみてください。
いくら豪華な供え物を持って行っても、自分でお供えすることはできません。
そちらにいる専門化のバラモン人が神に捧げないと、神は受け取らないそうです。
このように、社会には激しい差別があったのです。
このような差別主義のまっただ中で、仏教は貴賤の別なく、「平等」を説いたのです。
(続きます)
・・・・・・・・・・・・・・・
来たれ見よ (Ehipassiko) :誰でもチャレンジできる仏教実践
法話:スマナサーラ長老
文:出村佳子
根本仏教講義 ➤ 目 次
・・・・・・・・・・・・・・・
生きとし生けるものが幸せでありますように