苦しみを解決する人・解決できない人「来た見よ2-③」からの続き
医者が薬を処方するように
お釈迦さまは、人々が抱えている苦しみや問題を解決するために「対機説法」という方法を用いて法を説かれました。
対機説法とは何でしょうか?
ある宗派の中には、「対機説法は相手に合わせて適当に喋っているだけだから、たいしたことない」と言って、対機説法を軽視する人たちもいます。
こういう人たちは仏教を深く理解していませんし、対機説法の本当の意味を知らないのです。
対機説法とは、相手の性格や能力、素質に応じて、相手が理解できるように法を説くことで、これはちょうど医者が病人に的確な薬を処方するのに似ています。
風邪をひいている人には風邪薬を、胃の調子が悪い人には胃薬を、頭が痛い人には頭痛薬を与えるように、お釈迦さまは出会う人々の性格や能力、素質に応じて、その人の問題が解決するように的確に教えを説かれたのです。
そうすると、聞く側は自分の問題の解決法を具体的に教えてくれるのだから、目も耳も自動的にひらき、わずかにでもよそみをしようとせず、お釈迦さまの言葉一語一語にじっと耳を傾けて聞くのです。
対機説法は苦しみの特効薬です。相手が実際に直面している苦しみ、悩み、落ち込んでどうしようもなくなっている問題を解決するために法を説くことが、対機説法なのです。
ですからこれは一人ひとりにとって最適の説法です。
聞く人は確実に理解できますし、また問題を解決aするために実践しようともします。
したがって、対機説法は聞く人とって100%役に立つ最上の特効薬なのです。
対機説法は不完全?
対機説法は不完全なものでしょうか?
対機説法は特定の個人だけに説いた教えだから完全なものではない、と考えている宗派もありますが、答えは明快で、対機説法は不完全な教えではありません。その理由を、例をあげて説明いたしましょう。
生まれた者は死ぬ
お釈迦さまの在世中、キサーゴータミー (Kisāgotami) という名の母親がいました。
自分の子どもが死んだとき「どうして私の子が死んだのか」と、自分の不幸を嘆きました。
「なぜ私だけこんなに苦しい目に遭わなければならないのか。これはおかしい。薬を見つけて子どもを治さなければならない」
と考えて、子どもの遺体を抱いたまま、あちこち薬を探し回りました。
そのときお釈迦さまに出会ったのです。
キサーゴータミーがお釈迦さまに、「どうかこの子を治してください」とお願いしたところ、お釈迦さまはこう言いました。
「わかりました、治してあげましょう」と。
普通なら「死んだ人が生き返るはずがない」とか「いい加減にしないか」「頭がおかしいんじゃないか」「精神科に行きなさい」などと言うでしょう。
お釈迦さまはまったく違う態度をとられ、「娘さん、治してあげます」と言われたのです。
キサーゴータミーは「これで私の苦しみが治る」と大変喜びました。
お釈迦さまは「では、マスタードをほんの少し持ってきてください」と言いました。
マスタードはインドにはどこにでもあるもので、料理にも薬にも使いますから手に入れるのは簡単です。
キサーゴータミーは、これで子どもが生き返ると思い「すぐに持ってきます」と探しに出かけようとしたところ、お釈迦さまは、
「ちょっと待ってください。マスタードを、人が死んでいない家庭からもらってきてください」
とおっしゃるのです。
そこでキサーゴータミーは人が死んでいない家庭を探しました。
しかしどこの家に行っても死人を出したことのない家庭などありません。
いくら探しても見つからず、ようやくキサーゴータミーは「これは私だけの苦しみではない。生まれた者はみんな死ぬ」という真理に気づいたのです。
この真理に目覚めたとき、それまでの途轍もない悲しみも苦しみもすべて消滅し、心が静かになって落ち着きました。
これをきっかけに、彼女は修行し、瞑想に励み、悟りを開いたのでした。
お釈迦さまがキサーゴータミーという一人の女性に教えたことは、彼女個人だけの問題ではありません。人類すべて、いや生命全体に当てはまる普遍的な真理なのです。
対機説法こそ、本物の説法であり、その一つひとつは完全なる教えなのです。
(続きます)
生きとし生けるものが幸せでありますように
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法話:スマナサーラ長老
来たれ見よ (Ehipassiko) :誰でもチャレンジできる仏教実践
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文:出村佳子
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