自由 vs.執着「自由への突破口①-1」からの続き
・Phassa(触)
Phassa(パッサ)は「触れる」という意味です。
「眼・耳・鼻・舌・身・意」の六根に、「色・声・香・味・触・法」が触れます。
前の説明では「意」と「法」が抜けて、五つの感覚器官と対象でした。
これから六つの感覚器官とその対象について説明しましょう。
・身体に触が触れる――硬さ
目に色が触れ、耳に音が触れ、鼻に香が触れ、舌に味が触れ、身に触が触れ、意に法が触れます。
そこで、身の場合、「身体に”触”が触れる」というように「触」という言葉が二回出てきます。どちらも「触」ですが、意味はちょっと違います。
「目に色が触れる」これはわかりますね。
「耳に音が触れる」「鼻に香りが触れる」「舌に味が触れる」これもわかります。
次です、何だろう と困るのは。
「身体に触が触れる」と聞くと、「何だこれ?」と思うのです。
身体に何が触れるのでしょうか?
目には色が触れ、耳には音が触れますが、身体に触れる「触」とは何でしょうか?
たとえば、手で本に触れます。
私たちは「手が本に触れている」と思っていますが、本当は本に触れていません。
「硬さ」に触れているのです。
空気に触れることはできますか?
できませんね。硬くないと、触れられないのです。
でも、強い風が吹くと、空気の硬さは感じます。大量の空気が身体に触れますから、硬さを感じるのです。
さらに台風で強風が吹くと、風の硬さに触れすぎて、人が倒されてしまうほどです。
このように、身体に触れるのは、硬さです。
硬さが強い場合には「硬い」と言い、自分が期待するほど硬くない場合は「柔らかい」と言います。
「柔らかい」と言っても、どの程度の硬さでしょうかと、硬さでチェックしているのです。ですから、頭の中の妄想概念に「硬さ」がないと、その言葉は言えません。
たとえば、いろいろな人に一枚の布に触れてもらうとしましょう。そうすると、人によって「柔らかい」と言う人もいれば、「普通だ」と言う人もいて、「ちょっと硬い」と言う人もいます。みな同じ布に触れているのに、それぞれ異なるのです。
ご飯を食べるとき、一つの炊飯器でご飯を炊いて、それを十人で食べるとすると、「ちょうどいい」と言う人もいれば、「ちょっと硬い」と言う人もいて、「ちょっと柔らかい」と言う人もいます。
各人の頭の中に「標準の硬さ」があり、それと比較して、さまざまな意見を言うのです。
標準の硬さだったら「ちょうどいい」と言い、標準の硬さよりも柔らかければ「柔らかい」と言い、標準の硬さよりも硬ければ「硬い」と言います。
ですから「硬い」とか「柔らかい」と言う場合は、科学的な根拠はありません。
実験室では重さや弾力性などを測ったり、機械で計算しているかもしれませんが、その場合は数値で硬さが表され、人が感じる硬さとは異なります。
それでも調べるのは、硬さなのです。
・身体に触が触れる――熱
「硬さ」の他に、身体に触れるものがもう一つあります。
「熱」です。熱いか、冷たいか、普通かで、私たちは感じることができるのです。
何かに触れたときに「熱い」と感じたら、自分の頭の中にある標準温度よりも高いということですし、頭の中の標準温度よりも低ければ、「冷たい」と言います。頭の中の標準温度と同じなら、何も感じません。気づかないのです。
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このように、身体に感じるのはたった二つしかありません。「硬さ」と「熱」だけです。たいしたことはありません。身体に何かが触れたとき、私たちは心地いいとか心地悪いなどと言いますが、本当はたいしたデータではなく、すごくつまらない「硬さ」と「熱」だけが触れているのです。
そういうことで、phassa(パッサ)は「触」という漢字を使っていますが、「身体に触が触れる」という場合、硬さと温度が触れるということです。
精密に言えば、「目に色が触れ、耳に音が触れ、鼻に匂いが触れ、舌に味が触れ、身体に硬さと熱が触れる」となります。
こうすれば、「触」という言葉がだぶりませんから、わかりやすいですね。
話すときには何か単語を使わなければなりませんから、仏教ではこの「触」という言葉を使っているのです。
(続きます)
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法話:スマナサーラ長老
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文:出村佳子
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生きとし生けるものが幸せでありますように