2023/10/18

身体に触れるもの(phassa)「自由への突破口①-2」

 

自由 vs.執着自由への突破口①-1からの続き


・Phassa(触)


Phassa(パッサ)は「触れる」という意味です。
「眼・耳・鼻・舌・身・意」の六根に、「色・声・香・味・触・法」が触れます。


前の説明では「意」と「法」が抜けて、五つの感覚器官と対象でした。
これから六つの感覚器官とその対象について説明しましょう。



・身体に触が触れる――硬さ


目に色が触れ、耳に音が触れ、鼻に香が触れ、舌に味が触れ、身に触が触れ、意に法が触れます。


そこで、身の場合、「身体に”触”が触れる」というように「触」という言葉が二回出てきます。どちらも「触」ですが、意味はちょっと違います。


「目に色が触れる」これはわかりますね。
「耳に音が触れる」「鼻に香りが触れる」「舌に味が触れる」これもわかります。
次です、何だろう と困るのは。


「身体に触が触れる」と聞くと、「何だこれ?」と思うのです。


身体に何が触れるのでしょうか?
目には色が触れ、耳には音が触れますが、身体に触れる「触」とは何でしょうか?


たとえば、手で本に触れます。
私たちは「手が本に触れている」と思っていますが、本当は本に触れていません。


「硬さ」に触れているのです。


空気に触れることはできますか?


できませんね。硬くないと、触れられないのです。


でも、強い風が吹くと、空気の硬さは感じます。大量の空気が身体に触れますから、硬さを感じるのです。

さらに台風で強風が吹くと、風の硬さに触れすぎて、人が倒されてしまうほどです。

このように、身体に触れるのは、硬さです。


硬さが強い場合には「硬い」と言い、自分が期待するほど硬くない場合は「柔らかい」と言います。


「柔らかい」と言っても、どの程度の硬さでしょうかと、硬さでチェックしているのです。ですから、頭の中の妄想概念に「硬さ」がないと、その言葉は言えません。


たとえば、いろいろな人に一枚の布に触れてもらうとしましょう。そうすると、人によって「柔らかい」と言う人もいれば、「普通だ」と言う人もいて、「ちょっと硬い」と言う人もいます。みな同じ布に触れているのに、それぞれ異なるのです。


ご飯を食べるとき、一つの炊飯器でご飯を炊いて、それを十人で食べるとすると、「ちょうどいい」と言う人もいれば、「ちょっと硬い」と言う人もいて、「ちょっと柔らかい」と言う人もいます。


各人の頭の中に「標準の硬さ」があり、それと比較して、さまざまな意見を言うのです。

標準の硬さだったら「ちょうどいい」と言い、標準の硬さよりも柔らかければ「柔らかい」と言い、標準の硬さよりも硬ければ「硬い」と言います。


ですから「硬い」とか「柔らかい」と言う場合は、科学的な根拠はありません。

実験室では重さや弾力性などを測ったり、機械で計算しているかもしれませんが、その場合は数値で硬さが表され、人が感じる硬さとは異なります。
それでも調べるのは、硬さなのです。



・身体に触が触れる――熱

 

「硬さ」の他に、身体に触れるものがもう一つあります。

「熱」です。熱いか、冷たいか、普通かで、私たちは感じることができるのです。


何かに触れたときに「熱い」と感じたら、自分の頭の中にある標準温度よりも高いということですし、頭の中の標準温度よりも低ければ、「冷たい」と言います。頭の中の標準温度と同じなら、何も感じません。気づかないのです。


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このように、身体に感じるのはたった二つしかありません。「硬さ」と「熱」だけです。たいしたことはありません。身体に何かが触れたとき、私たちは心地いいとか心地悪いなどと言いますが、本当はたいしたデータではなく、すごくつまらない「硬さ」と「熱」だけが触れているのです。


そういうことで、phassa(パッサ)は「触」という漢字を使っていますが、「身体に触が触れる」という場合、硬さと温度が触れるということです。

精密に言えば、「目に色が触れ、耳に音が触れ、鼻に匂いが触れ、舌に味が触れ、身体に硬さと熱が触れる」となります。

こうすれば、「触」という言葉がだぶりませんから、わかりやすいですね。

話すときには何か単語を使わなければなりませんから、仏教ではこの「触」という言葉を使っているのです。


(続きます)


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法話:スマナサーラ長老

自由への突破口 〜遠離から喜びが生じる ➤ 目 次

根本仏教講義 ➤ 目 次

文:出村佳子

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生きとし生けるものが幸せでありますように