身体に触れるもの(phassa)「自由への突破口①-2」からの続き
・意に法が触れる
五感で知るものは決まっています。色声香味触だけです。
でも、私たちに触れるものはそれだけでしょうか?
過去のことを思い出したり、将来のことを考えたり、怒りや嫉妬、憎しみを感じたり、そういうものは何でしょうか?
意識です。眼耳鼻舌身意の六番目、「意」です。
こころで感じるのです。
このこころで感じるものは、存在する必要はありません。私たちはこころの中で、想像したり思考したりすることができます。しかし、それも結局は合成されたものにすぎません。
皆さまは怪獣のことを想像できるでしょう。頭の中で想像できますが、実際、存在しません。
過去のことも想像できますし、想像したものを書くこともできます。でも、実際には、今、過去は存在しません。
将来のこともイメージできますが、それも存在しません。
存在しないのに、頭の中でイメージすることができます。
このように、私たちは「ない」ものでも認識することができるのです。
でも、よく見てみると、「ない」のではなく、過去にあったことや経験したことを組み合わせて合成していることがわかります。
たとえば、龍という想像上の動物がいるでしょう。あれは世の中にいる動物たちの部品をいくつか組み合わせて作ったイメージなのです。
将来のことをイメージするときも、過去の経験をいろいろ組み合わせて、頭の中で絵を描くのです。ですから私たちの将来のイメージは、過去のことばかりです。
日本の方はウナギが好きですね。世界のウナギの四分の三を日本人が食べていると聞いたことがあります。
そこで、今ここで、ウナギの蒲焼きをイメージしてくださいと言ったら、できませんか? 味や匂いを頭の中で再現できませんか?
できますね。味や匂い、感触をイメージできると思います。
しかし、よく見てください。それはただ、過去の経験を復活させただけです。
これから食べようとするウナギは、まだ存在していません。
仏教では、存在しないものもこころで認識できると教えています。
たとえば私が目を閉じて、目の前のテーブルに触ると、「テーブルだ」と認識することができます。この場合、今ここにあるものです。
そこで、あるものだけでなく、ないものも、過去のものも、現在のものも、将来のものも、こころで認識することができるのです。
問題は、私たちは頭で考えることにたいして、すごく心配するということです。頭で考えることは、目で見るものや耳で聞くものよりも、信頼できません。
何かに触れて「熱い」と感じたら、それなりに測ることはできますが、考えることは測ることができないのです。
仏教では「意」に触れるものを全部まとめて、「法」と呼んでいます。現象という意味です。なぜ、「法」という字を使うのでしょうか?
瞑想すると、こころはどんどん成長して、サマーディや、これまで一度も経験したことがない状態、それから涅槃など、そういうものを経験することができます。
サマーディという状態は、実際につくることが可能ですし、存在もします。涅槃も、真理としてある現象です。そうしたものも、こころで認識できますし、認識しなくてはいけないのです。
このように、こころに認識可能なものすべてが入る単語は何かというと、「法」です。漏れるものは何もありません。パーリ語では、ダンマ(Dhamma)と言います。
六根によって触が起こる話しがむずかしくなりましたから、少しまとめましょう。
「眼耳鼻舌身意」に「色声香味触法」が触れます。因果法則を教えているところでは、これを「六根によって、触が起こる」と言っています。六根に情報が触れることです。「眼耳鼻舌身意」があると、身体に「触」がすぐに生まれるのです。
(続きます)
・・・・・・・・・・・・・・・
法話:スマナサーラ長老
自由への突破口 〜遠離から喜びが生じる ➤ 目 次
根本仏教講義 ➤ 目 次
文:出村佳子
・・・・・・・・・・・・・・・
生きとし生けるものが幸せでありますように