「触」によって、「受」が起こる
触れたら、次に感じます。これを因果法則で「触によって、受が起こる」と言っています。
「受」とは感覚のことです。眼で感じ、耳で感じ、鼻で感じ、舌で感じ、身体で感じます。わかりやすいですね。感じることをパーリ語で〝vedanā〞と言います。
「受」によって、「渇愛」が起こる
感受したものによって、次に渇愛が生じます。
この渇愛はすごくややこしい単語で、「渇いている」という意味です。あってもあっても足りない、満足しない、ということです。
これはごく自然なことで、私たちは何かを味わったら「これでいい」と思えず、また味わいたくなります。
何か音楽を聞いても、「もう十分だ、二度と聞かなくてもいい」と思えず、また聞きたくなります。いわゆる、生きるためにはずっと聞かなくてはいけないのです。
何かを見たり、音を聞いたり、匂いを嗅いだり、味を味わったり、身体で感じることを、ずっとしなくてはならないのです。
味の場合は24時間ずっと感じているわけではありませんが、舌は常に感じられる状態でいます。
身体は、ずっと感じています。
眼は、眼を閉じている以外は、ずっと感じています。
耳も、音を感じようといつでもかまえています。音を聞いたとたん、脳が動き出して、目が覚めるのです。寝ている人を目覚めさせようと無理やり目を開けたら、その人は目を覚ましますか?
全然覚ましません。目を無理やり開けても、目が覚めるわけではないのです。
でも、身体が動いたり、何か口で喋ったりするかもしれません。そちらは窓口が24時間あいています。そうでないと生きていられないのです。
ですから、この渇愛は私たちが生きるためにかなり重要な働きをしているのです。
・生きるとは、休みのない作業
生きるということは、絶えず何かが起きているということです。
休止や休憩はありません。
これは、止まることなく鼓動している心臓と同じです。心臓が止まったら、私たちは死にます。細胞に酸素を送ることに、休みはありません。
また、栄養を送ることにも休みはありません。私たちが食べるのは1日3回だけかもしれませんが、血液中では栄養成分がずっと流れているのです。
このように、生きるということは絶えず起きている出来事で、止まることはありません。これはどうしようもないことです。
生きることは、休みのない作業です。なぜそうなっているのでしょうか?
お釈迦様はいたって簡単に、「すべてのものごとは無常です」と教えています。
いまご飯を食べても、それは無常ですから、すぐに消えてしまいます。
またご飯を食べても、それも無常ですから、すぐに消え、また食べなければなりません。
すべてが無常で、すぐ消えるので、「また同じことを繰り返さなくてはいけない」という渇愛が、すべての生命の心にあるのです。
・「嫌い」も渇愛
渇愛は欲であり、「欲しい」という意味です。
同様に、「欲しくない」という気持ちにも、渇愛と言います。
何かを食べたとき、その味が嫌いで欲しくない場合、それも渇愛と言うのです。
好きな音楽を聴くと、渇愛が生じます。嫌いな音楽を聞くと、渇愛は生じませんか?
皆様は渇愛は生じないと思っているかもしれませんが、仏教から見れば、渇愛が生じています。「聞きたくない」という渇愛が生まれているのです。
渇愛はパーリ語で、タンハー(taṇhā)と言います。「渇き」という意味です。
そこで、何かを食べたとき、嫌いな味だったとしましょう。
そのとき「食べたい」という渇きが、そこにそのままあります。「食べたい」という気持ちが強すぎて、この味ではダメだということなのです。
おいしいものを食べたときに「おいしい」と欲が生まれるのはわかりやすいですね。
でも、おいしいものを食べたいのに、まずかったら、「これは嫌だ」と、おいしいものを食べたい気持ちがさらに強くなるのです。
ダイエットをする人は、なぜリバウンドするのでしょうか?
本当は食べたいのに、食べないからです。それで「食べたい」という渇愛が溜まり、その結果、我慢できずに食べ過ぎて、リバウンドしてしまうのです。
舌に触れる味も同じことで、耳に触れる音によっても、渇愛が増えるばかりです。
目を楽しませたい、面白いテレビや映画を見たいなど、見たいものを見れば楽しいでしょうが、見られなかったら、「見たい」という渇愛がさらに強くなるのです。
ということで、私たちは美しいものや面白いものを見ても、渇愛が生まれ、美しくないものや面白くないものを見ても、渇愛が生まれます。何を見ても、何を聞いても、何を食べても、何をやっても、渇きが増えるのです。
(続きます)
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文:出村佳子
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生きとし生けるものが幸せでありますように