「五蘊への愛欲」が執着です
次に、別の経典を紹介します。
これは阿羅漢に覚っていたダンマディンナー比丘尼と、在家の男性信者ヴィサーカ居士との対話です。ヴィサーカ居士も、預流果か一来果くらいに覚っていました。
ヴィサーカ居士がダンマディンナー比丘尼に質問しました。
「五蘊が執着ですか? 執着は五蘊と別のものですか?」
要するに、自分が執着ですか? 執着は自分と違うものですか? 別のものですか? と尋ねます。
ダンマディンナー比丘尼は、このように答えました。
「五蘊は執着ではありません。執着は五蘊と別のものでもありません」
むずかしいですね。ここで新しい専門用語が加わります。チャンダラーガ(chandarāga)です。漢字で「愛欲」と書きますが、直訳するならば「好き」という言葉を入れて「好欲」と言ったほうが正しいです。
でも、そういう言葉は使われていませんから、「愛欲」という言葉を使って説明します。
ダンマディンナー比丘尼は続けてこう答えます。
「五蘊にたいする愛欲が、執着(upādāna)です」
つまり、私たちは身体のことが好きなんです。
肉体というものはすぐに変化するし、コントロールできないし、ずっと壊れているんだと考えれば、そこに愛欲はありません。
感覚についても、感覚はずっと変化しているでしょう。あてになりません。触ったものによって、感覚が変わります。「この感覚が好きだと」思って執着することは、あてになりません。ですから放っておけばよいのですが、私たちは放っておかず、「これ、いいな」と考えて、五蘊にたいして愛欲をつくるのです。
この愛欲が執着(upādāna)である、とダンマディンナー比丘尼は説いています。
世にある美しいものは、欲ではない
Na te kāmā yāni citrāni loke, Saṅkapparāgo purisassa kāmo;
Tiṭṭhanti citrāni tatheva loke, Athettha dhīrā vinayanti chandaṃ.
(Saṃyuttanikāyo 1.Sagāthāvaggo 1.Devatāsaṃyuttaṃ 4.Satullapakāyikavaggo 4.Nasantisuttaṃ34)
世にある美しいものは、欲ではありません。
人の思考(概念)が、欲なのです。
世にある美しいものは、そのまま放っておき、
賢者はそれにたいする愛欲を戒めるのです。
「ウナギの蒲焼きがおいしい」のではありません。「ウナギとは豪華な食べ物である」という人の思考や感情が問題なのです。
「バラは美しい」というのは人の感情です。植物はそれぞれ何か形を作って咲いているだけです。私たちが「バラが美しい」と言っているのは、自分の気持ちや概念、思考を表現しているだけです。ですから自分の思考や妄想が欲なのです。
俗っぽく言えば、私たちは「あの花がきれいだから欲しい」と花のせいにします。
「あの女性が美人だから、私に欲が生まれた」と女性のせいにします。
「このウナギは美味しいから、私に食べたいという欲が生まれた」と食べ物のせいにします。
それは間違いです。食べ物は何もしていません。道路を歩いている美しい女性は何もしていません。以前、ある女性が殺害される事件が起こりました。犯人の男は、「自分がストーカー行為をしたのは、この女性のせいだ。俺のことを無視したから殺した。女性が悪い」と言うのです。
女性は何もしていません。この男の欲が問題なのです。
同じことを、私たちもしています。自分はまともな人間だと思っていますが、同じことをしているのです。欲・怒りなどの感情を、対象のせいにするのです。「あの人は美人だから気に入っている」「あなたがうるさいから腹が立つ」「あなたが言うことを聞かないから、いらだつ」「あなたが間違えたから、私は怒っている」などと。
このように、世の中はいつでも自分の心の汚れを他人のせいにしています。
しかし、世の中はそのままあるだけです。仕事で何か失敗した人には、上司を怒らせようという気持ちはありません。上司は勝手に怒ったのです。
そのポイントを、この経典で言っています。
ですから、智慧のある人は世の中のことは放っておいて、自分に愛着や愛欲が生まれないように戒めるのです。
(続きます)
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文:出村佳子
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生きとし生けるものが幸せでありますように