渇愛によって執着が生まれる「自由への突破口①-6」からの続き
自分への執着
次のテーマは、「自分に執着する」ことです。
命とは、五蘊のことです。皆様は五蘊(pañcakkhandha)という言葉を聞いたことがありますね。
五蘊とは、色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊という五つのシステムのことです。
私たちが「私」とか「自分」と言っているものを、仏教用語では「五蘊」と言っています。
色蘊は肉体、受蘊は感覚、想蘊は概念、行蘊は「生きていきたい」とか「やりたい」などという衝動、識蘊は認識です。
ただの物体には認識することができませんが、生命という物体には認識することができるのです。
このように、五つのシステムがあります。この五つのシステムを合わせたものを、「私」とか「自分」と呼んでいるのです。
これは、五執蘊(pañcūpādānakkhandha)とも言われます。
「五蘊」ではなく、よく使う言葉は「五執蘊」のほうです。
ここに執(ūpādāna)という言葉が入っています。これは「執着する五蘊」という意味です。
私たちが一般的に、自分に執着がある、自分に愛情がある、自分のことが好きだ、などの言葉で言っているのは、自分自身に執着があることです。
しかし、その執着は何なのかと明確に理解していません。
自分に執着していると言っても、その「自分」とは何なのかと理解していないのです。
ですからお釈迦様は、「自分」という曖昧な言葉が示している具体的な働きは五蘊である、と教えるのです。
自分を五蘊に分析して理解すると、五蘊の一つを取り上げて、「これは私です」と言うことはできません。色・受・想・行・識には、それぞれ別個の仕事があるのです。
色蘊の仕事は、受蘊にはできません。
同じく、想蘊・行蘊・識蘊も各自で特定の仕事をしているのです。
五蘊がおこなう仕事を一個一個調べると、決して「これが私です」と言うことはできません。
ものごとを大雑把に理解する一般の方々は、五蘊を区別しないで、すべてまとめて「私」というラベルを貼るのです。
人に執着があることは確かです。執着は感情の仲間なので、行蘊の働きになります。そこで、色蘊に執着する、受蘊に執着する、想蘊に執着する、行蘊に執着する、識蘊に執着する、という行蘊の働きが見えてきます。
ですからお釈迦様は、煩悩がある生命にたいして、五蘊ではなく、五執蘊という言葉を使っているのです。
執着があると、自由がありません。執着の対象に依存しなくてはいけなくなるのです。執着の対象を守らなくてはいけなくなるのです。
私たちは五蘊に執着していますから、自分のことについてよく悩みます。よりよい自分をつくろうと苦労します。
このように、自分という言葉を使うと立派に聞こえますが、実は五蘊のことで困っているのです。五蘊にたいして悩んでいるのです。五蘊に執着しているのです。
自分に執着することは、五蘊に執着していることです。
煩悩がある生命には、五蘊を守り、執着すること以外に、他のことをする余裕も時間もありません。自由はないのです。
(続きます)
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法話:スマナサーラ長老
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文:出村佳子
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生きとし生けるものが幸せでありますように