身体で感じる感覚
身体で感じる感覚は3種類あります。楽(sukha vedanā)と、苦(dukkhā vedanā)と、不苦不楽(adukkhamasukha vedanā)です。
感じるものが3つのカテゴリーに入ります。人生は楽しいことだけではありません。データを明確に分けると、3つの感覚があるのです。
①楽(sukha vedanā)
楽の感覚があるときは、楽しいですね。でも、それがなくなると苦しくなります。たとえば恋をしているときは楽しいでしょう。ふられたらどうなりますか? 苦しくなります。
楽しい感覚が起きているとき、「欲」の潜在煩悩が起こります。潜在煩悩というのは溜まるものです。どんどん溜まっていくのです。恋をしているとき、本人は気づいていませんが、欲の煩悩が溜まって溜まっていきます。でも、ふられた瞬間、ものすごく苦しくなり、苦の感覚が生まれるのです。
②苦(dukkhā vedanā)
苦の感覚があるときは、苦しみがあります。この「あるとき」というのは、「眼・耳・鼻・舌・身・意」に「色・声・香・味・触・法」という情報が触れるとき、という意味です。
たとえば病気になって身体が痛くなると苦しいし、ケガをすると苦しいものです。お腹がすいたら苦しいし、誰かに怒鳴られたら苦しいです。
では、苦しみがなくなるとどうなりますか? 楽になります。高熱が出て病気のときは苦しいですが、熱が下がると楽になり、楽しくなるのです。
そこで、苦の感覚が起きているときは、「怒り」の潜在煩悩が起こります。苦しいとき、心の中には怒りが溜まります。病気で苦しくなって機嫌が悪くなった場合、もう怒っているのです。
③不苦不楽(adukkhamasukha vedanā)
問題は3番目の感覚です。不苦不楽の感覚とは、楽でも苦でもない感覚です。楽しいでも苦しいでもなく、普通の感覚です。
人は四六時中、楽の感覚を感じているわけではありませんし、四六時中、苦の感覚も感じているわけでもありません。ふつう感じているのは、不苦不楽の感覚です。
その感覚には、誰も注意しません。楽と苦の感覚なら、すぐに気がつきます。ときどき「つまらない」「退屈」「何かをして刺激を受けなくちゃいけない」という気持ちになります。それは不苦不楽の感覚を変えたがっている気持ちなのです。
皆様はよく「退屈だ」と言うでしょう。楽しいこともなく、何もやることがなくなって退屈だと思うとき、心は何も活動していないように思えるかもしれません。
しかし、そのときは「無知」という潜在煩悩が溜まっているのです。無知とは煩悩の中で一番たちの悪い感情です。気づくことすらしないので、無知の煩悩は溜まりたい放題溜まるのです。
本当は不苦不楽の気持ちを知ると、気楽になるはずです。たとえば休日で仕事をしなくてもいいし、見たいテレビ番組もないし、行きたいところもないし、何もやることはないし、ただ居ればいいという状態のとき、結構リラックスして生きられるはずです。
でも私たちは、リラックスどころではなく、「あーいやだ、退屈だ。何かしなければ」と思ってしまうのです。その気持ちになるのは、不苦不楽の感覚から無知の煩悩が溜まったからです。それで不苦不楽の感覚が苦しみになるのです。
派手な楽しい感覚もなく、派手な苦しい感覚もないときには、「無知」の潜在煩悩が起こると理解してほしいのです。
特に、瞑想実践する人が気をつけるべきポイントでもあります。とりたてて苦しみもなく、楽もなく、瞑想が続く場合があります。日常生活の場合と同じく、瞑想実践者にも、不苦不楽の感覚の時間が長くなります。
その感覚に気づいて、観察する必要があります。不苦不楽の感覚に気づかないと、無知の煩悩が溜まるので、実践者は退屈を感じるか、眠ってしまうのです。
坐っているときだけでなく、立っているときも眠っている人がいます。歩いているときも眠っている人がいます。無知の煩悩がものすごく溜まっているのです。
そこで、人生の中でデータを正しくとってみると、すごく楽しいという瞬間はそれほどありません。すごく苦しいという瞬間もそれほどありません。一般的には楽しみ(楽の感覚)よりも苦しみ(苦の感覚)の方がたくさんあります。それよりもさらに、無知の感覚が大量にあるのです。
たとえば毎日、職場に行って仕事をします。そのとき楽しいですか? 苦しいですか?
別に楽しいということはないでしょうし、慣れていますから苦しいということもありません。しかし仕事中、上司にちょっと難しい仕事を頼まれると、急に不安になって苦しみが生まれます。反対に、楽にできる仕事を頼まれると楽しいのです。
会社の仕事で考えてみると、楽で簡単にできる仕事は、それほどたくさんありませんし、苦しくて死にそうになるような仕事も、たくさんありません。よくあるのは、ごく普通の仕事です。ですから、私たちが感じる感覚は、楽の感覚は少なく、苦の感覚は楽の感覚よりも多く、不苦不楽の感覚は大量にあります。
煩悩で計算すると、「欲」はそれほど生まれません。「怒り」は結構生まれます。「無知」は大量に生まれるのです。
感覚に依存している限り、私たちは煩悩や束縛、執着から離れることができません。感覚はいつでもあるものです。身体がある限り、感じます。眼がある限り、感じます。耳がある限り、感じます。感じているなら、煩悩が生まれるということです。これはどうしようもありません。煩悩が生まれると、束縛されて、自由はないのです。
(続きます)
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文:出村佳子
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生きとし生けるものが幸せでありますように