すべての感覚を戒めるべきか?「自由への突破口②-4」からの続き
執着(束縛)には4種あります。
・欲(五欲)への執着(欲取)kāmupādānaṃ
・見解への執着(見取)diṭṭhupādānaṃ
・儀式・儀礼・行等への執着(戒禁取)sīlabbatupādānaṃ
・我論への執着(我論取)attavādupādānaṃ
①欲(五欲)への執着(kāmupādānaṃ)
1番目は欲(五欲)への執着です。これは物に依存することです。見るもの、聞くもの、嗅ぐもの、味わうものなど物に依存することです。服や食べ物、アクセサリー、お金、家などに依存することです。
物とは「色・声・香・味・触」です。当然これらは五根に触れます。
それから感覚が起こります。これは仕方のないことです。
しかしこのとき、愛着・渇愛(taṇhā)だけは起こらないようにと戒めなければなりません。
かばんを大事に使うのはかまいませんが、愛着しないようにしなければなりません。お金は生活するために必要ですから稼がなければなりませんが、それに愛着しないことです。
仏教の「戒」と「律」は、その目的で説かれています。仏教には戒律があります。まとめて戒律と言われていますが、本当は戒律は2つなんです。「戒」と「律」です。
「戒」とはやってはいけないこと、「律」はやるべきことです。これは結構詳しく説明してあります。禁止項目が「戒」で、行わなくてはいけない項目条件は「律」です。
たとえば食べるとき、身体に必要な量を知って、それだけを食べます。それは律です。どのように食べるべきかという説明です。
それから、食べ方があります。「おいしい、おいしい」と味に執着して食べるのではなく、おいしさを感じるけど味に執着しないようにします。
あるいは、「身体は壊れるものだから必要な修復材料を取り入れます」という凄くクールな気持ちで食べるのです。これも「律」です。
寝るときも、肉体の疲れをなくすために横になるんです。「身体がだるい、ちょっと休ませます」というやり方で休みます。それも「律」です。「あー眠い。寝ちゃおう」というのはダメです。
このように「律」はたくさんあります。「戒」よりも「律」の方が多いのです。
歩き方、座り方、歯の磨き方、顔の洗い方、服の着方、脱ぎ方、たたみ方、それからトイレの使い方、部屋の掃除の仕方までいろいろあります。
「戒」は少ないです。皆様が知っているのは五つ(五戒)だけですからね。「律」は、出家には大量にあります。
そこで、目があるから見えるでしょ。見えるものにたいして「まあいいや別に」という気持ちでいて、でも「欲と怒りはつくりません」と心の中でチェックします。
花を見たら、「きれいですね」とそれで終わり。「なんてきれいな花ですか。感動しました」まではいきません。それは目にたいする「戒」です。戒を守れば、
心は汚れません。
耳があるから音が聞こえます。心地いい音があり、心地よくない音があります。
音楽が流れてきて出家者の耳に触れると「いい音だな」と思いますが、欲はつくらないように戒めます。そこでストップし、ガードするのです。
耳障りな音が入ると、怒りが生まれます。
出家者は、怒りが生まれないよう気づき(サティ)でガードします。音が入ってもいいのですが、怒りが生まれないようチェックするのです。
このように、1番目の五欲への執着(束縛)を戒めるために戒律(戒と律)があるのです。
五欲をサマタ瞑想で睡眠状態にすることができます。サマタ瞑想をすると、五欲が睡眠状態になります。寝てしまって働かないんです。仮眠状態ではなく、睡眠状態になるのです。
現代用語で言えば、ログアウト状態です。五欲への執着がログアウトになるんです。
しかし、ログアウトしているということは、いつでもログインできるということです。そこを憶えておいてください。サマタ瞑想をすると煩悩がログアウトになりますから、心はきれいです。でも、すぐにログインして元に戻ることもできるのです。
(続きます)
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法話:スマナサーラ長老
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文:出村佳子
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生きとし生けるものが幸せでありますように