2024/01/11

見解への執着(見取)「自由への突破口③-2」

  

五欲への執着を戒める"戒と律"「自由への突破口③-1」からの続き


②見解への執着(見取)diṭṭhupādānaṃ


執着の二番目は、見解への執着(見取)diṭṭhupādānaṃ です。

誰にだって自分の考えがあります。人は情報を認識すると、心に概念が生じます。

たとえばテーブルに触れたとき、身体は「硬さ」と「熱」しか感じません。
でも、頭の中では「これはテーブルだ」と考えます。
そういう感じで頭の中に概念が起こるのです。


自由への突破口 スマナサーラ長老法話


それから概念をかきまわして、自分の意見を作ります。たとえばこのテーブルを見て、「これは古いな」とか、「そういえばこのホールは新しいものではない」などと。このように概念をかきまわすのです。


なぜ「このテーブルは古い」と思うのでしょうか?
このテーブルを見るのはこの会場に来たときだけです。古いとも新しいとも何とも言えないのです。でも、過去に別の新しいテーブルを見たことがあって、その概念を合体させて、このテーブルは古いという意見を作ったのです。


当然、自分の意見は正しいと思うのです。間違っていると発見したら、その意見は消えます。意見が間違っているとわかったら、意見を変えるのです。


たとえば誰かに目隠しをして、このテーブルの上の部分だけ手で触わらせます。
「これは何ですか?」と聞くと、その人は「板です」と言います。もう概念が生まれています。このとき、自分の意見は正しいとも思っているのです。


でも目隠しを外すと、板ではなくテーブルだということがわかります。そうすると、「あ、テーブルか」と、あの意見を変えるのです。その意見にたいしても「正しい」と思っています。
そういうわけで、いつだって自分の意見は正しいと思うことになるのです。


残念なことに、他人にも意見があり、それはほとんどの場合、自分の意見と合いません。たまに合うときもありますけど、完全に合うことはありません。


そうなると、"私は正しい"と 自分の意見を守らなくてはならないでしょ。自分の意見に執着します。自分の意見に束縛されて、怒りや嫉妬、悩み、憂い、苦しみなどが生じるのです。


誰でも意見を持っています。持っていない人はいません。それでみんな自分は正しいと思い、自分の意見を守ろうとするのです。
お母さんは小学生の我が子と喧嘩するし、幼稚園生の我が子とも喧嘩します。その場合、子供は自分の意見が正しいと思い、お母さんは自分の意見が正しいと思っているのです。それで親子喧嘩が起こるのです。

このような状況は日常生活で誰にでもあることです。

(続きます)


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法話:スマナサーラ長老

自由への突破口 〜遠離から喜びが生じる ➤ 目 次

根本仏教講義 ➤ 目 次

文:出村佳子

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生きとし生けるものが幸せでありますように