儀式・儀礼・行への執着(戒禁取)「自由への突破口③-4」から続きます。
修行は苦行?
信仰がある人もない人も、修行とは苦行だと思っています。
宗教に興味がない人でも、「修行」と聞いたとたん、普通の楽な生活をやめて何か難しい苦行をしていると思っています。
結局は、「儀式儀礼をありがたがる思考」が脳の中に入っているのです。
無意味なことでも続けることを讃嘆する
これは日本でよくあることですが、どんなにくだらない無意味なことでも、同じことを30年でも、40年でもずっとやっていると、テレビやラジオ番組などで取り上げられます。
意味のあることならよいのですが、マンネリで惰性的にやっていることも讃嘆するのです。
以前、空きビンを集めている人のことを特集している番組を見ました。その人は大学の教授なんです。色や形の違う空きビンをいろいろ集めていて、結構大量にたまっているんです。
なぜ集めているのかというと、捨てられた空きビンを拾うことによって、自分を慰めているそうです。
自分がこれまでいじめられたり、失望したりして、「なんでいま生きているのか。自分は社会で必要のない人間ではないか」と思ったときはいつでも、その捨てられたビンを見て、「これは昔、誰かが使っていたものだが、いまは捨てられている。私の人生も、この捨てられたビンと同じだ」と考えるのだそうです。
それで一体感を感じて慰められ、捨てられたビンを集めるようになったとのことです。ビンを集めることが、その人の儀式になっているのです。
本格的な執着
「何かを守れば救われる」という気持ちは本格的な執着になります。「これさえ守れば私は助かります」とか「念仏さえ称えれば万事OKだ」とか「洗礼さえ受ければ天国に行けます。救われます」と思ったら、それは強い執着です。恐ろしい執着なので、仏教はそれを断つことに精進するのです。
無宗教の人も執着をつくる
宗教を持っていない人に儀式儀礼への執着はないかというと、そうではありません。あります。「自分は宗教に属していない。儀式儀礼にたいする執着はない。毎日仕事をして、家族の面倒をみ、子どもに教育を受けさせ、一人前に育て、ときどきみんなで旅行をしたり、ハイキングに行ったり、それで写真でも撮ったりしてのんびりしながら生きていれば、それで大丈夫だ」と思っているかもしれません。
しかし、それも執着なのです。
無宗教の人は、「社会の決まりを守っていればそれだけで十分だ」という執着をつくります。無宗教の人にも、執着があるのです。一般的に無宗教の人、特に無神論者は、宗教の人よりも道徳を守り、行儀がよいものです。神を信仰している人は、ものすごく怖いんです。人を裏切ることもあります。それに比べて、無宗教の人は神への信仰がありませんから、結構社会の決まりやしきたり、行儀作法、道徳を守って生活しています。でも、それがその人たちの執着になるのです。
脳はマンネリで働く
脳はマンネリで働くようになっています。脳科学者たちも「脳は何でもマンネリで、すべて決まったパターンで動いている」と言っています。
脳にパターンをつけてマンネリでやらせたのは、心です。マンネリが好きなのは、脳ではなく、心なのです。
脳はその被害を受けているだけです。
そこで、仏教はヴィパッサナー冥想をする人たちに、「1時間以上、歩く冥想をしてください」と指導します。歩くことは誰でもマンネリでやっていることで、いつでもオートパイロットで自動的に歩いています。冥想では、いつもやっているオートパイロットで歩かないようにするのです。歩くとき、わざと実況中継をします。これは執着を断つための訓練なのです。
習性が悪性になる
私たちは、基本的な社会のルールや決まりを守らなくてはなりません。普遍的な道徳を守らなくてはならないのです。冥想の場合も、くり返し実践して、冥想を習慣にする必要があります。そうでないと、心は治らないのです。
しかし、そのような常識的な生き方であっても、それに愛着・執着が生まれてしまうのです。
毎日やっているマンネリ的なことは、日常生活においては欠かせないかもしれません。
でも、それを「必ずやらなくてはいけない」という使命感にしてはならないのです。
例えば、朝6時半の電車に乗れば会社に30分くらいの余裕をもって出勤できる。そこでその人が、20年も同じことを繰り返したとしましょう。その人の人生はすべて、そのパターンに慣れているのです。しかし、台風が来て電車が運休になることも、地震が起きて運休になることもあるのです。それでも、会社は毎日のように営業しています。
その時、その人は毎日のパターンどおり動けないことに怯えるのです。それで、その他のやっていることまで、崩れてしまうのです。
運休だから出勤できない、というところで物事を収めないのです。毎日、6時半の電車に乗ることは、マンネリかもしれないが、避けられない行為です。それに人生を合わせることも悪くないのです。
問題は、自分自身でも気づかないうちに、自分がマンネリの人生に執着を作っていることです。パーリ語でパラーマーサ(parāmāsa)というのは、決して離したくはならない、捨てたくはならない、執着のことです。溺れている人が浮き輪をつかむような感じで、「これだけは捨てません」と必死に決まりやしきたりにしがみつくと、それは執着になるのです。ですから、しきたりや決まりは守っても、それにしがみつくことはやめてください。
決まりやしきたり、習慣、習性が悪いのではなく、しがみつくこと(parāmāsa)で悪性になるのです。挨拶や道徳の習慣は社会の中では必要なもので、これらは問題ありません。でも、しがみつくと悪性になるのです。しがみつかなければ、悪性になりません。
改良する構え、捨てる構え
私たちには、改良する構え、捨てる構えが必要です。悪いしきたりや習慣、習性は捨てる能力が必要です。しがみついていると、捨てられません。しきたり習慣、習性はいつでも改良しなくてはいけないのです。
特に宗教組織が困っているところはそこなんです。古い文化で、昔からやっていることをずっと守り続けなければと考えて、しがみついているのです。
たとえば、「この儀式は200年、300年もやっているんだから続けていかなくてはならない」とか。また、「この仏像は50年に1回しか見せませんよ」ともったいぶっているお寺もあります。なんで隠しておくんですか? それならずっと隠しておけばいいでしょう。
それは、執着なんです。煩悩なんです。ですから一般人より聖職者のほうが執着が多くて、煩悩が多いのです。
気づきの実践で煩悩が消える
「人の道は客観的に観察することだ」と発見すると、この煩悩は消えます。いわゆるオートモードではなく、客観的にデータを観て判断するのです。「すべて無常だ。何が起こるかわからない。想定どおりに動くわけではない。すべて想定外だ」と。
そう観ることで、能力がものすごく上がります。これを仏教で、気づきの実践と言うのです。
(続きます)
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法話:スマナサーラ長老
自由への突破口 〜遠離から喜びが生じる ➤ 目 次
根本仏教講義 ➤ 目 次
文:出村佳子
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生きとし生けるものが幸せでありますように