2024/02/15

我論への執着「自由への突破口③-6」

 

 改良する構え、捨てる構え「自由への突破口③-5」から続きます。


④「我論」への執着 attavādupādānaṃ


最も強い執着は、「我語取(我論への執着)」です。

自分の身体や感覚、思考、感情などを「自分だ、私だ、自我だ」と錯覚することです。

思考は思考であって、「私」ではありません。だってすぐに変化するでしょ。感情は感情であって、すぐに変化するものです。ですから「私」ではありません。肉体も変化して壊れていきますから、「私」ではありません。

でも私たちは、それらすべてにたいして「私だ」と思っているのです。


自由への突破口 スマナサーラ長老法話


無意味なことでも続けることを讃嘆する


私の身体、私の考え、私の意見、私の感情、私の目、私の鼻、私の脳……。全部「私」と付けていますが、「私」はどこにいるのかと探しても、どこにもいません。ですから、これは明確に錯覚なのです。


自分という何かがある、自分という実体があると信じることを sakkāyadiṭṭhi(有身見)と言います。誰でも自分に執着しています。執着していない人はいません。犬やネコも自分に執着しています。執着は捨てられません。


ヴィパッサナー瞑想で「現象は無常・苦・無我である」と発見することによって、有身見が無くなって預流果の覚りに達するのだと説かれています。


しかし、この状態は完全に無我を発見したことになっていないのです。

我語取から解放されるために、阿羅漢果という最後の覚りに達しなくてはいけないと言われています。

すから、有身見と我語取は別のものであると理解しなくてはいけないのです。しかし、何が違うのかと明確に説明することはとても難しい作業になります。

少々、解説に挑戦してみましょう。


個 性 


有身見とは、生命の個性であると仮に理解しましょう。

仏教は一般的に、すべての生命を「個」として扱っているので、条件をつけず、「すべての生命は平等である」と言うことは難しくなります。生命を分析してみると、みな「色・受・想・行・識」という五取蘊で合成されています。「すべての生命は五取蘊である」というスタンスからのみ、「生命は平等である」と言うことが可能になるのです。


私たちは口では「あなたも私も同じだ」と言うのですが、自分は他人と違った「個」であることを明確に感じています。

その感覚に他の煩悩も絡んでくると、「自分」という殻が現れるのです。

預流果に達する修行者は、この殻を破ります。

自分とは特別な個ではない、と発見するのです。

しかし、完全に無我を覚ったとは言えません。

要するに、我が無いと知ってはいるが、その実感は無いということです。

預流果に達した人は、「仏・法・僧」にたいして揺るぎない確信を持っています。無我は仏説なので、その人は微塵も疑いなく、無我説が正しいと知っているのです。

問題はその人に、無我という実感がまだ無いことです。

 (続きます)


・・・・・・・・・・・・・・・

法話:スマナサーラ長老

自由への突破口 〜遠離から喜びが生じる ➤ 目 次

根本仏教講義 ➤ 目 次

文:出村佳子

・・・・・・・・・・・・・・・


生きとし生けるものが幸せでありますように