互いに依存し合う〈心〉と〈身体〉
私たちの「心」と「身体」は、どのように成り立っているのでしょうか?
ブッダは、「心と身体を分離することはできない」とおっしゃいました。
身体は心なしで成り立つことができませんし、心は身体なしで成り立つことができません。
心と身体は、互いに依存し合って働き、成り立っているのです。
では、「私(自己)」とは何でしょうか?
心のことでしょうか?
身体のことでしょうか?
心(nāma)は「私」ではありませんし、身体(rūpa)も「私」ではありません。
心も身体も実体的な「私」ではないのです。
したがって、「私」と呼ばれるものにも実体はありません。
「私」とは、心の諸要素と身体の諸要素が組み合わさって、一時的に成り立っているものにすぎません。
私たちはそれを「私」と呼んでいるにすぎないのです。
では、なぜ「実体がない」と言えるのでしょうか?
それは、心はつねに変化し、身体もつねに変化しつづけているからです。
変化しないものは、どこにもありません。
「私」というものは、つねに変化しつづけていますから、固定した実体でも、永遠なる自己でもありません。魂でも、我(が)でもないのです。
しかし、人はなかなかこの真理をあるがままに見ることができません。
なぜでしょうか?
それは、「私」や「私の身体」にたいして執着しているからです。
『身体の苦しみの手放しかた:輪廻からの解放へ
Nandivisāla Sutta(ナンディウィサーラ経)』より