2024/04/17

うつと離欲「自由への突破口③-9」最終回


自分という実感は、阿羅漢になるまでなくならない「自由への突破口③-8」から続きます。


おわりに: 無欲と離欲(arati - virati)


解脱の境地は無執着の境地だと言われています。欲が消えた状態とも言えます。パーリ語で、欲に rati とも言います。
しかし、rati が無い状態に、arati と virati という2つの言葉があります。
直訳すると、無欲、離欲になります。同じ意味ではないので説明いたします。


自由への突破口 スマナサーラ長老法話


仏道修行をして五欲から離れることを意味するとき、virati(離欲)が使われます。では、arati の意味は何でしょうか?


やる気を失う、という意味です。arati は現代用語で、「鬱(うつ)」という意味です。こころの病気なのです。こころは常に活性化した状態でなければいけません。欲ではなく、喜びを感じなくてはいけません。欲は束縛であり、執着です。欲と喜びは別のものです。欲で喜ぶ場合もありますが、この場合の喜びは別のものです。


慈・悲・喜・捨の「喜」を実践することで、こころに意図的に喜びを経験させます。「私の願いごとが叶えられますように」というの言葉がありますが、それを念じるとき「私の願いごとはとっくに叶っています」「私はうまくいっています」と充実感を意図的に感じてみてください。そうやって喜びを育てるのです。これは鬱にたいする治療法です。


そこで、お坊さんや修行者も、ときどき鬱になります。たとえば頑張って瞑想しているのですが、成長する気配がありません。そうすると、だんだんやる気がなくなって「やってもやってもこんなものだ」と落ち込むのです。それも鬱なんです。これを仏教用語で arati というのです。


喜びとは、欲ではなく、こころにやる気、意欲があることです。努力した分、充実感を感じるのです。ですから、すごく喜びを感じてほしい。「自分はうまく生きているんだ。人生は大丈夫だ。頑張れば結果があるんだ」と。悩んだり落ち込んだりしてはいけません。ちょっとした喜びではなく、身体中に喜びが溢れるよう、こころいっぱいに喜びを感じるようにしなくてはならないのです。そうすると、ものすごく元気になります。それには慈・悲・喜・捨の実践をしなくてはならないのです。


ヴィパッサナー瞑想をするときでも、こころが妄想から離れて、何もない、ただ実況中継だけの世界に入っていることに、喜びを感じなければなりません。それは不苦不楽の世界ですが、このときも頑張っていますから、こころに喜びを与えたほうがよいのです。喜びは、こころの栄養剤です。それで、こころが成長するのです。ですから喜びを感じてください。


苦しいときも喜びを感じることができます。山に登っても、喜びを感じるでしょう。登山は楽なことではありませんが、頂上に着いたとき、喜びを感じることができます。ものすごく難しい試験に合格したくて、苦労して徹夜してでも勉強しますが、合格したらものすごく喜びを感じます。ですから喜びはこころの栄養剤になるのです。


喜びを英訳すると、この場合 excitement です。脳にやる気が起きるのです。充実感は contentment です。この2つを使って実践するのです。これは仏道にしかありません。世の中には楽しいことがいっぱいありますが、それに執着すると、麻薬のように自己破壊します。仏教は何の副作用もない、すごく純粋で、清らかな喜びを与えてくれるのです。仏道を実践して、思う存分、喜びと充実感を感じましょう。

 (了)


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法話:スマナサーラ長老

自由への突破口 〜遠離から喜びが生じる ➤ 目 次

根本仏教講義 ➤ 目 次

文:出村佳子

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生きとし生けるものが幸せでありますように