「私」とは誰か?➃ からの続き
【質疑応答】
輪廻転生における「私」
Q 輪廻転生はあるのでしょうか?
スマナサーラ長老の本に「『私』を前提としている限り、輪廻転生は分からない」と読んだことがあります。科学的で真理なのだろうと思いますが、まだ腑に落ちません。
A 輪廻転生が腑に落ちないのは、「私がいる」と思うからなのです。「自分」というものはあてにならない不確かなものでしょう。瞬間瞬間、違う自分が現れるのです。生まれた時点の自分は、次の瞬間にはもういません。小学生の時の自分と今の自分はまるっきり別人だということはご自分でもわかるでしょう。だから一つの現象が消えて、また一つの現象が生まれる。輪廻転生とは隙間がない現象の流れであって、それだけのことなのです。
Q 死んだら輪廻転生するのでしょうか?
A エネルギーはエネルギーとして無になって消えることはありませんからね。輪廻転生というのは仏教から見れば当たり前の現象であって、何を当たり前のことを訊いているのかという感じなのです。私たちはついつい、〈私〉が死んだら〈私〉はどこに行くのか、どこに生まれ変わるのかと思ってしまう。それは使っている言葉自体が間違いなのです。
仏教から見れば、〈私〉というのは何を指しているのかと訊き返したいのです。実際、〈私〉と言えるものは存在しないのだから。ただ、精神的な激しいエネルギーの流れがあって、それは物質とまるっきり違う法則で働くんです。
物質にも終わりがありません。宇宙が破壊したらそれで終わりではなく、また新しい宇宙が生まれるのです。そうやって、エネルギーといものが生滅変化しつつ繋がっていくということなのです。
心と呼ばれる物質とは別の流れもあります。その心は物質を支配しようとします。これは無駄な努力なのですが、どうしてもやってしまうのです。心が物質を支配しようとした結果として、我々のような生命はそれぞれ体を持っているのです。体は物質で構成された有機体です。しかし、この体はおかしいのです。自然の物理法則では起きないことが、体の物質の中では起きています。細胞をコピーするのです。体はずっとあらゆるホルモンを作って、それで体を維持管理しています。純物質だったらこんなことをする必要はありません。体の細胞は自分をコピーして新しい体をせっせと作っています。これは生命を持たない純物質では起こらない現象です。
純物質に起こるのはエネルギーが回転して、お互いに繋がったりするだけです。例えば、水素を燃やすと水になるというすごく分かりやすい自然の法則でしょう。
生命の肉体になってくると、物理学とは関係なくなってしまうのです。例えば、人間の体が物体だったら立っていると倒れるはずです。しかし、実際には倒れません。これは物理学と合っていないのです。ほんの小さな面積しかない人間の二本の足裏で、こんな巨体を立たせることはできません。立たせることができたとしても、立たせ続けるためには精密にバランスを取らなくてはいけないのです。しかし、人間の肉体は風に吹かれてもバランスを取って立ち続けます。そのエネルギーはどこから出てくるのでしょうか?
正解は心です。心という莫大なエネルギーが、物質を管理しようとして戦い続けているのです。しかし、やがて負けを喫します。どうしても勝てっこないのです。負けてもその心のエネルギーはあきらめずにまた頑張ってしまう。俗っぽく言うならば「死んでもまた生まれ変わる」ということになるのです。心のエネルギーはあきらめずに同じことを繰り返します。そのエネルギーの流れに〈私〉という実感が生まれてくる。それは一時的な幻覚に過ぎない、瞬間瞬間、新しく生まれる〈私〉という実感です。そういうふうに理解するしかないのです。物質も心も、エネルギーは絶えず変化し続けるという法則です。エネルギーは決して無にならないのです。
お釈迦様はその程度にしか説明していません。ブッダの道を実践すると解脱します、涅槃に入ります、と仰るだけで、解脱とは何か、涅槃は何かということは詳しく語られていないのです。
実際のところ、解脱・涅槃を言葉で説明することは不可能です。説明するためには解脱・涅槃の反対の言葉を使って理解してもらうしかない。そこで、「生きることは苦である。苦をなくすことで解脱に達するのだ」と言うのです。
Q 輪廻と因果の違いがよくわかりません。
A 輪廻と因果はどう違うのか? 結局は同じことです。因縁はずっと流れます。因縁がなければ、何も現象は現れません。現れた現象が原因になって次の現象に繋がります。そうやってずっと続くのです。
人間に因縁を当てはめる場合は、輪廻と言う。物質に因縁を当てはめる場合は、輪廻と言わない。それだけの違いです。
物質も因果法則によって変化しています。例えば原子一個を見ても、その中に因果法則があります。水素原子になぜエレクトロン(電子)が一個しかないのでしょうか? 因果法則です。エネルギーのやり取りです。なぜ酸素は他の元素に繋がろうとして不安定なのでしょうか? なぜプルトニウムなどの放射物質はずっと放射線を出し続けるのでしょうか? それも因果法則なのです。しかし、物質には輪廻と言いません。それでも、よく観察すると輪廻のように物事が起こっているでしょう。放射性物質が放射線を出し、それが入った物質は同じく汚染されるのです。その物質がまた他の物質に触れた、その物質も連鎖して汚染されてしまう。放射線を出しまくることで放射性物質は徐々に崩壊しますが、それには膨大な時間がかかります。半減期という言葉が使われていますね。それは物質の世界の因果法則です。
生命には心という別のエネルギーがあります。それも因果法則で輪廻しているのです。結局は同じことです。ただ輪廻という単語は生命にしか使いません。「このマイクロフォンは輪廻する」とは決して言いません。しかし、このマイクロフォンは今も消えて壊れて別のものに変化し続けているのです。
主観的判断と客観的判断
Q 生命を自と他に分けているから苦しみが生じているのでしょうか?
A それはその通りです。自と他に分けるから問題が起こるのです。ただの現象で、無常で流れるしかない、ということが答えです。それを発見できるように瞑想実践しなくてはいけないのです。
Q 意門にデータが入るときに自分の判断が割り込んできて、そのフィルターを通して判断している実感があります。それによって怒りを感じたりしていると思うのです。
A それは主観的な判断になるのです。意にデータが入ると99パーセント主観的に判断することになります。判断しないことには、命を続けられないのです。手を上げたり、歩いたりすることも判断です。瞑想会に出かけるのも判断でしょう。だから、生きる場合は瞬間瞬間、判断しているのです。意門でやる場合は主観的な判断になります。そうすると間違いを犯します。
修行して成功する人々は、客観的に判断をくだすのです。客観的な判断の場合は、それほど間違えません。その場で正しい結果を出したとしても、別のシチュエーションでは同じ判断が裏目に出るかも知れない。ということで、判断とは瞬間的で、結果も瞬間的なのです。
例えば、この建物に火がついたとしましょう。「あっ! やばい、避難しよう」という判断もできます。それは主観的な判断です。「火がついたのだから、誰だって避難しなくてはいけない」という客観的な判断もくだせます。
結果として、みんな避難しているのだけど、「やばい、逃げろ~っ」と主観的に判断するのはカッコ悪いし、感情に駆られて判断を誤ることもある。「火が出たから逃げなくてはいけない。ではどう避難するのが妥当だろうか?」と客観的に判断する方が間違えは少なくて済むのです。
主観的な判断はカッコ悪くて間違いが多い。客観的な判断は間違いが少ない、と憶えておいてください。
Q 客観的な判断は意識して行うということですか?
A 意識しないとできない場合は意識して行ってください。智慧が顕れてくると、だんだん意識せずに判断できるようになります。
(了)
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法話:スマナサーラ長老
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文:出村佳子
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